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中也が太宰を殴ります。なんでも許せる人向け。
薄暗いリビングで、中原中也はただ独り、ソファに深く身を沈めていた。 時計の針は午前零時をとうに過ぎている。普段なら、ポートマフィアの重責を担う彼が先に帰宅していることなど稀だ。だが今夜、彼はあえて早々に仕事を切り上げ、この閉ざされた空間で「獲物」の帰りを待っていた。
カチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。 その音は、静寂に支配された部屋の中で、死刑執行の合図のように鋭く響く。
太宰治は、音を立てないように慎重に扉を閉め、リビングへと足を踏み入れた。だが、闇の中に浮かび上がる中也のシルエットを認めた瞬間、彼の喉が微かに鳴った。指先が震え、持っていた鞄の重みが、そのまま地面へと引きずり込まれるような錯覚に陥る。
「……あぁ、中也。起きていたのかい」
太宰の声は、いつもの軽薄さを取り繕おうとして、無惨に掠れていた。 中也は動かない。ただ、低く、冷徹な声が闇を切り裂いた。
「……太宰。手前、門限が何時か、分かってんのか?」
その一言に、太宰の背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。 「門限」などという可愛らしい言葉が、この部屋では「中也の忍耐の限界」を意味することを、太宰は誰よりも知っている。
「……ごめん。仕事が、少し長引いてしまって」
太宰は一歩、後ずさる。だが、その動きは中也の苛立ちを加速させるだけだった。 中也がゆっくりと立ち上がる。その眼窩に深く刻まれた隈が、怒りと疲労を強調し、彼を怪物のように見せていた。
「仕事? 嘘をつくな。手前、あの眼鏡の男や、死に損ないの塾生と酒を飲んでただろう。……俺を、独りで待たせて。……俺を、馬鹿にしてんのかッ!!」
「……っ!!」
太宰が逃げる暇もなかった。 中也の拳が、太宰の腹部を正確に捉える。 衝撃で胃の中の空気がすべて弾け飛び、太宰は床に膝をついた。肺が酸素を拒絶し、ヒューヒューと情けない音を立てる。
「……ぁ、……が、……っ」
「顔を上げろよ。……俺の目を見て、もう一度言ってみろ。何が仕事だ。俺がどれだけイライラして、どれだけ手前を求めてたか、分かってねえはずねえだろうが!!」
中也の手が、太宰の黒髪を乱暴に掴み上げた。無理やり上向かされた太宰の視界に、怒りで歪んだ中也の顔が映る。その瞳は、もはや理性の光など失われ、どろりとした独占欲と暴力的な渇望に支配されていた。
太宰の頬に、乾いた打撃音が響く。 一度、二度。 太宰の視界が火花を散らし、鼻の奥で鉄の味が広がり始めた。 中也の暴力は、洗練されたマフィアの体術ではなく、ただ感情を叩きつけるだけの、泥臭く、残酷なものだった。
「……ごめ、……なさい……っ、……ちゅ、や……」
太宰は震える手で中也の腕を掴もうとするが、それは拒絶ではなく、ただの懇願だった。 殴られるたびに、身体が熱くなる。 痛い。本当に嫌いだ。死にたいほどに、中也が恐ろしい。 けれど。 こうして自分を殴る中也の瞳に、自分以外の誰も映っていないという事実。 この暴力という名のコミュニケーションだけが、太宰の空っぽな胸に、確かな「重み」を刻みつけていた。
「……痛えか。そうだよな、痛えよな」
中也の声が、不意に湿り気を帯びた。 太宰の顔面に膝を叩き込もうとしていたその動きが止まる。 太宰の鼻から溢れた鮮血が、中也の拳を赤く染めていた。 それを見た瞬間、中也の全身から力が抜け、彼は太宰の首に腕を回して、その場に崩れ落ちた。
「……ごめん。……ごめん、太宰……。俺、また……。手前を、大事にするって言ったのに……」
中也の涙が、太宰の血と混ざり合う。 太宰は、激痛に震える身体を必死に支えながら、自分を壊した男の背中に手を回した。
「……いいよ。……大丈夫だ、中也。……私は、どこへも、行かないよ」
太宰は、痣だらけの顔で微笑んだ。 痛みは引き、代わりに全身を包み込むのは、いつもの、あの泥のような安堵。 中也に必要とされている。彼を狂わせているのは、自分だ。 その「加害者」であり「被害者」であるという共依存の鎖が、太宰をこの部屋に、この地獄に繋ぎ止めている。
「……愛してるぜ、太宰。……お前がいなきゃ、俺は……」
中也が太宰の首筋に顔を埋め、縋るように呟く。 太宰は、その温もりを享受しながら、静かに目を閉じた。 門限を破った報いは、十分に受けた。 そして今、彼は世界で一番安全で、世界で一番残酷な場所に、確かに帰ってきたのだ。
薄暗いリビングの照明が、低い位置で虚しく部屋を照らしている。
ソファに座らされた太宰の全身は、まるで壊れかけた陶器を継ぎ接ぎしたかのように、夥しい数の傷痕で埋め尽くされていた。
中也は、救急箱を床に置き、膝をついて太宰の前に座った。その手は、先ほどまで太宰を打ち据えていたものとは思えないほど、細かく震えている。
「……脱げ」
短く、絞り出すような声。太宰は痛みに顔を顰めながら、ゆっくりとシャツのボタンを外した。
露わになったその白い肌には、今夜つけられた鮮やかな紅色の打撃痕だけではなく、既に黄色く変色し始めた古い痣や、消えかけの指の痕、そしていつかの激昂でつけられたであろう、薄い裂傷の痕が幾層にも重なっている。
それは中也という男の、愛という名の暴力が刻み続けた、歪な年輪のようだった。
「……ひどいな。自分でも、どれがいつの傷か、もう思い出せないよ」
太宰が自嘲気味に呟くと、中也は喉の奥で「っ、……」と詰まったような声を漏らした。
中也は消毒液を浸した綿棒を手に取り、太宰の口端にできた新しい傷にそっと触れる。
「……っ!!」
鋭い刺激に、太宰の肩が跳ねる。
中也はその反応に怯えるように、より一層慎重に、そして祈るような手つきで傷口をなぞった。
「……すまねえ。……痛えよな。分かってる、俺が、全部俺がやったんだ」
中也の声は湿り、瞳には後悔の涙が溜まっている。
消毒液が傷口に染みるたび、太宰は生理的な涙をこぼし、中也の肩に額を預けた。
鼻を突く消毒液のツンとした匂いと、中也の体温、そして彼が纏う煙草の香りが混ざり合い、太宰の意識を朦朧とさせる。
中也の指先は、消毒を終えた後も、太宰の脇腹や腕にある古い痣の上をなぞり続けた。
まるで、傷つけることでしか所有を確認できなかった自分の未熟さを、一つずつ確認して懺悔しているかのように。
「……中也。……もう、いいよ」
「よくねえよ。……俺は、手前をこんなにして……。なのに、なんで手前は、そんなに大人しく俺に触らせるんだよ……!」
中也は消毒を終えたばかりの太宰の腰を引き寄せ、その傷だらけの胸板に顔を埋めた。
後悔と愛情が、狂おしいほどの熱を持って太宰に伝わる。
太宰は、痛む身体を中也に委ねながら、彼の頭を優しく撫でた。
痛いのは、嫌いだ。
自分をこんな風にする中也も、本当は大嫌いだ。
けれど、傷の手当てをする中也の、この世の終わりかというほど絶望した表情を見ている時だけ、太宰は不思議な万能感に包まれる。
この男を、これほどまでに無惨に、残酷に、そして孤独にさせているのは、私だ。
私の身体に刻まれたこの無数の傷は、中也が私なしでは生きられないという、何よりの証拠(エビデンス)なのだ。
「……中也。……君が私を必要としてくれるなら、どんな傷だって、私は受け入れるよ」
それは、聖者のような言葉でありながら、悪魔のような呪いでもあった。
太宰は、中也の背中にある深い隈を見下ろしながら、暗い喜びを胸の奥に隠して微笑んだ。
中也は、太宰の肌に刻まれた自分の痕跡を慈しむように、痣の一つ一つに、熱い口づけを落としていく。
消毒液の苦い味が、二人の唇の間で溶け合った。
「……太宰……。愛してる……。俺を、一人にしないでくれ……」
「……あぁ。……ずっと、ここにいるよ」
二人だけの、血と消毒液の匂いが満ちる夜。
太宰は、傷ついた身体を抱きしめる中也の腕の中で、皮肉なほどの安らぎを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
明日、また新しい傷が増えることを、心のどこかで確信しながら。