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第305話 自分は誰だ
【どこでもない層/深部】
《本人判定――不能》
Cが出したその結果を、カシウスはしばらく眺めていた。
寝台の上では、死んだ被験体Aの身体へ入れられた別人の意識――Bが、自分をAだと信じている。
身体はA。
記憶もA。
人格もA。
自分の名前を尋ねられればAの名前を答え、家族のことも、仕事も、幼い頃の出来事も話せる。
それでも、意識コアの基底部分にはBが残っている。
白峰律はそこを見ていた。
カシウスは違った。
「本人判定ができないなら、まだ条件が足りない」
白峰が振り返る。
「まだ続けるつもりですか」
「当然だ」
「Bの自己認識は、もうかなり崩れている」
「崩れたからこそ分かることがある」
カシウスの視線が、別の観測領域へ移る。
そこには以前、意識コアを交換された二人の被験者が残されていた。
被験体C。
被験体D。
どちらも身体は生きている。
だが、中にある意識は
互いに入れ替わったまま。
さらに、それぞれへ「身体の持ち主」の記憶と人格情報が書き込まれている。
同じ方法。
同じ量。
近い定着率。
それでも結果は同じにはならなかった。
オルガが記録を開く。
「被験体Dの意識コアを入れた身体C。身体側の人格情報定着率、現在七十二%」
「自己認識は?」
カシウスが聞く。
「不安定」
「もう一方は」
「被験体Cの意識コアを入れた身体D。人格情報定着率六十九%」
僅かな差。
だが、オルガは続けた。
「こちらは、基底自己認識を維持している」
カシウスの目が細くなる。
「見せろ」
◆ ◆ ◆
最初に起こされたのは
Dの意識を持つ、Cの身体だった。
男の身体。
その中にいる意識は、本来ならDという女性だった。
しかし現在
本人は鏡を見ても、以前ほど混乱しない。
男の顔。
男の身体。
それを
自分のものとして認識し始めている。
オルガが椅子の前へ立つ。
「名前を言える?」
被験者はすぐに答えた。
Cの名前。
「生年月日」
答える。
Cのもの。
「母親の名前」
正しい。
「子どもの頃に住んでいた場所」
正しい。
「あなたは誰?」
被験者は、少し怪訝そうな顔をした。
「さっきから何なんですか」
「質問に答えて」
「俺は――」
また
Cの名前。
オルガが確認する。
《表層自己認識・C》
《身体認識・C》
《人格情報C・定着率72%》
だが
Cの声が続く。
『基底意識反応・Dを検出』
白峰の目が動く。
「残っている」
カシウスは聞く。
「表へ出せるか」
『刺激条件を変更します』
被験者の前に、一枚の画像が表示された。
見知らぬ家。
少なくとも今の本人には
そう見えるはずだった。
だが
身体が反応した。
呼吸が止まる。
指先が僅かに震える。
被験者が画面を見つめた。
「……ここ」
オルガが聞く。
「知ってる?」
「いや」
言葉では否定する。
しかし、目が離れない。
そこは
Dが幼い頃に暮らしていた家だった。
次の画像。
古い公園。
さらに
一人の女性。
Dの母親
被験者の顔から、血の気が引いた。
「……誰だ」
オルガは答えない。
被験者が胸元を押さえる。
「誰なんだ、この人」
声が震える。
「知らないのに……」
涙が流れた。
本人自身が最も驚いていた。
「何で……泣いてるんだ」
《基底意識反応D・上昇》
《記憶参照・断片》
《情動反応・一致》
白峰が低く言った。
「消えていない」
カシウスは黙って見ている。
被験者が自分の頭を押さえた。
「待って」
「俺……」
呼吸が荒くなる。
「俺の名前……」
さっきまで迷わず答えていた。
それが。
出てこない。
Cの名前。
知っている。
自分の名前として何度も答えた。
なのに。
突然、それが借り物のように感じ始める。
「俺は……誰だ」
オルガが聞く。
「思い出せる?」
「分からない」
「C?」
男が顔を歪める。
「それが……俺の名前だったはずだ」
「だった?」
「そう教えられた気がする」
白峰がカシウスを見る。
「自己認識が壊れ始めている」
「違う」
カシウスは静かに言う。
「下に残ったDが出てきた」
◆ ◆ ◆
次。
Cの意識を持つ、Dの身体。
こちらは最初から様子が違った。
女性の身体で目を開ける。
鏡を見る。
顔に触れる。
だがその目には
嫌悪に近い拒絶が残っている。
オルガが尋ねる。
「名前は?」
即答。
Cの名前。
身体の持ち主Dではない。
人格情報はすでに六十九%まで書き込まれている。
Dの幼少期。
Dの家族。
Dの学校。
Dの仕事。
Dが好んでいた食べ物。
Dが怖がっていたこと。
大量の情報を持っている。
オルガが一つずつ尋ねると
すべて答えられた。
「その記憶はあなたのもの?」
被験者は首を振る。
「違う」
「でも思い出せる」
「思い出せるのと、自分の記憶なのは別だ」
白峰が反応した。
カシウスも。
被験者は自分の胸へ手を置く。
「小さい頃、この身体で転んだ記憶がある」
膝を見る。
「痛かったことも分かる」
次。
「母親に怒られたことも」
次。
「初めて好きになった男の顔も分かる」
そこで被験者は眉を寄せた。
「でも」
鏡を見る。
「俺じゃない」
オルガが聞く。
「なぜ分かる」
「分かるからだ」
「理由は?」
「理由なんか知らない」
被験者は苛立った声で答える。
「この記憶を見ても、俺がやったことに感じない」
胸を押さえる。
「頭の中にあるだけだ」
白峰が小さく息を吐いた。
同じ量の記憶。
同じ程度の人格定着。
それでも。
片方は飲み込まれ。
片方は拒絶している。
Cの観測。
《人格情報D・定着率69%》
《記憶参照・正常》
《基底自己認識C・維持》
《上書き情報との不一致認識・明瞭》
カシウスが言った。
「なぜ差が出る」
Cが答える。
『単一要因では説明できません』
『元の自己認識強度』
『記憶同士の関連密度』
『感情反応』
『身体認識』
『過去の選択経験』
『複数要素が影響している可能性があります』
白峰が被験者を見る。
「人間はファイルじゃない」
カシウスが振り返る。
「今さら何を言う」
「同じ情報を書き込めば同じ結果になるわけじゃない」
「だから調べている」
カシウスは少しも動揺していない。
「何を消せば抵抗がなくなるのか」
白峰の目が鋭くなる。
「またそこへ戻るんですか」
「元の記憶が邪魔をするなら、消せばいい」
「全部消したら、元の人間はいなくなる」
「それを確かめる」
◆ ◆ ◆
別の観測記録が開かれた。
被験体E。
以前
特定の記憶を削除された男。
十七歳の夜。
交通事故。
自分が運転していた車で友人を死なせた。
その記憶を消された。
正確には。
事故の映像。
友人が死亡したという認識。
自分が原因だと考えていた罪悪感。
それに結びつく恐怖。
一つずつ参照できなくした。
実験直後。
男は自分がなぜ車を避けていたのか分からなくなった。
なぜ大学へ進まなかったのか。
なぜ夜の外出を嫌っていたのか。
なぜ雨の日だけ気分が悪くなるのか。
過去に取った行動自体は残っている。
大学へ行かなかった事実も。
自動車免許を長く取らなかった事実も。
人付き合いを避けてきた年月も。
消えない。
ただ、その理由だけが
本人の記憶から抜け落ちた。
カシウスが言う。
「起こせ」
被験体Eが目を開ける。
前回より落ち着いていた。
オルガが聞く。
「体調は?」
「普通です」
「最近、夢を見る?」
被験者は少し考える。
「……見ます」
白峰が顔を上げる。
「どんな」
「分からないんです」
「覚えてない?」
「場面は」
男は眉を寄せる。
「雨」
「それと……ライト」
呼吸が僅かに速くなる。
「誰かが叫んでる気もする」
カシウスの目が細くなった。
「事故の夢?」
男は首を傾げる。
「事故?」
本当に分かっていない。
オルガが別の画像を出す。
夜道。
雨。
車のフロントガラス越しの景色。
その瞬間、
男の右手が震えた。
脈拍。
上昇。
呼吸。
乱れる。
「……消して」
男が言った。
「何が嫌だ?」
白峰が聞く。
「分かりません」
「怖い?」
「……分からない」
だが、目を逸らす。
Cの結果。
《対象記憶・参照不能》
《事故認識・なし》
《罪悪感記憶・参照不能》
そして
一行。
《身体反応・残存》
白峰が表示を見る。
「記憶を消しても、身体は覚えてる」
オルガが補足する。
「身体だけとは限らない。意識コア側の未分類反応もある」
カシウスが聞く。
「さらに消せるか」
Cが答える。
『該当反応の抑制は可能です』
「完全には」
『保証できません』
「なぜ」
『反応の原因が単一記憶に限定されていません』
男が聞いている。
だが何の話をされているのか分かっていない。
白峰がカシウスを見る。
「これが答えでしょう」
「何の」
「人間の過去は、一件の記録じゃない」
事故。
そこから生まれた恐怖。
進路。
人間関係。
避けた場所。
選ばなかった仕事。
雨の日の身体反応。
誰かの声を聞いた時の感覚。
一つの出来事がその後の人生全体へ広がっている。
「一つ消したつもりでも、その記憶で変わった本人まで元には戻らない」
白峰は言った。
「逆も同じです。別人の記憶を入れても、その人が実際に生きて選んできた時間までは作れない」
カシウスは
暫く答えなかった。
やがて。
被験体CとD。
そしてEの結果を同時に見た。
記憶は書き込める。
消すこともできる。
人格も変化する。
自分の名前さえ
分からなくさせることができる。
だが完全には揃わない。
どこかに残る本人が。
自分でも説明できない形で。
Cの声が響いた。
『暫定結果を更新します』
《記憶情報削除・成立》
《人格変容・確認》
《自己認識上書き・部分成立》
《基底意識完全置換・未達》
《完全同一人物化――確認不能》
白峰が表示を見つめる。
「まだ分からないんじゃない」
静かな声だった。
「できていないんです」
カシウスは白峰を見る。
「何が」
「別人を完全に別人へ変えることが」
白峰は続ける。
「記憶を消しても残る」
「名前を変えても残る」
「別の人生を入れても残る」
「何かが」
そこまで言って言葉を止めた。
それを
魂と呼ぶのか。
意識コアと呼ぶのか。
自己認識と呼ぶのか。
まだ、誰にも分からない。
カシウスは、その曖昧さを嫌うように目を細めた。
「なら」
視線がゆっくり
別の場所へ向いた。
白峰もその先を見る。
白色コア。
榊原梓の意識。
長い間身体から切り離され。
名前の記憶さえ弱くなり。
それでも。
完全には別の誰かになっていない。
Cが反応を拾う。
《白色コア・観測対象外》
《外部人物情報照合・継続》
カシウスが言った。
「元の本人が、どこまで削っても残るのか」
白峰の表情が変わった。
「やめろ」
カシウスは白色コアから目を離さなかった。
「これ以上に適した対象はいない」
「梓には触るな」
その名前を白峰は初めて
深層で、はっきり口にした。
白色コアが強く脈打った。
一度。
二度。
そして。
Cが新しい反応を拾う。
《名称反応》
白峰の顔が上がる。
《一致率・上昇》
カシウスも白い光を見る。
その瞬間。
遠く離れた現実世界で
一ノ瀬ユナの中にも同じ名前が
あと少しのところまで
浮かび上がろうとしていた。
#探偵
橘靖竜
6,601
4,465
にゃいにゃい
74
コメント
1件
いや…重かった。でもすごく考えさせられる話だったわ。 「記憶を消しても身体は覚えてる」「自分じゃないと拒絶できる人間がいる」――この差って何なんだろうって。 白峰が「梓」って名前を初めて口にした瞬間、白色コアが反応したのは胸にきた。 カシウスの執着もこわいけど、それだけ「完全な置換」を追い求めてるんだな…。 次の展開、めっちゃ気になる!