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読み終えました……いや、すごかったです。梓さんの名前が戻った瞬間、鳥肌が立ちました。「いた」っていうユナの一言が全部を変えた感じがして。それに白峰律の「加害者です」という言葉は重かったです。自分が始めたことと向き合おうとしているのが伝わってくる。散らばっていたピースが一人の人間に繋がっていく展開が本当に丁寧で、次が気になって仕方ないです。
第306話 榊原梓
【現実世界・一ノ瀬家/夕方】
その名前は、突然出てきたわけではなかった。
ずっと。
喉の奥に引っかかっていた。
「さ……」
「さか……」
そこまでは何度も届いた。
だが、その先へ進もうとするたびに、記憶の中へ白い霧がかかった。
一ノ瀬ユナは、テーブルの上に置かれた写真を見つめていた。
クロスゲート・テクノロジーズ。
初期開発部門の集合写真。
自分の少し後ろ。
白峰律の近くに立つ一人の女性。
これまで名前だけが抜け落ちていた人物。
リオは向かい側に座り、何も言わずに待っている。
「姉さん。無理するな」
「分かってる」
そう答えながら
ユナの目は写真から離れなかった。
思い出そうとしてはいけない。
無理に追えば頭が痛くなる。
何度もそう言われている。
それでも
今日は違った。
顔を見ても消えない。
声も少しずつ戻ってきている。
『ユナちゃん、また変数一個ずれてる』
『動けばいい、じゃないからね』
『後で読む人が困るコードは、未来の自分も困るから』
笑いながら。
少し厳しく。
けれど必ず理由を説明してくれた人。
そしてあの日。
白い実験室。
椅子へ座る直前、振り返って。
『終わったらユナちゃんにも見せてもらおうかな』
「……違う」
ユナが呟いた。
リオが顔を上げる。
「何が」
「見せてもらうんじゃない」
記憶の中の言葉が
ほんの少しだけ変わる。
『終わったらユナちゃんにも教えてあげようかな』
ユナの指が震えた。
「私……」
頭の中で
女性が振り返る。
その顔。
そして
名前。
一文字。
二文字。
三文字。
今度は
消えなかった。
「榊原」
リオが息を止める。
ユナは、写真の女性を見たまま続けた。
「榊原……梓」
#探偵
橘靖竜
6,601
4,465
にゃいにゃい
74
部屋の空気が一瞬
変わったように感じた。
「先輩の名前」
ユナの目から涙が落ちた。
「榊原梓さん」
リオはすぐには何も言えなかった。
ユナは写真へ手を伸ばし
女性の顔へ指先を置いた。
「いた」
声が震える。
「やっぱり……いた」
今まで
存在だけを思い出していた。
でも
名前を言った瞬間。
その人が
ようやく一人の人間として戻ってきた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・警察関連施設/臨時合同分析室・夜】
連絡を受けた城ヶ峰たちは、すぐに古い記録を洗い直した。
日下部が検索欄へ入力する。
《榊原梓》
最初。
何も出ない。
通常の社員データベースには存在しない。
だが名前が分かれば探し方が変わる。
完全一致だけではなく断片。
旧バックアップ。
外部メール。
ソースコード。
端末キャッシュ。
共同開発先。
交通費。
会議資料。
木崎が横から言う。
「消した本人の記録だけ追うな」
日下部が見る。
「周りに残った名前ですね」
「ああ。本人を消せても、誰かが書いた文章まで全部消すのは難しい」
検索範囲が広がる。
数秒。
一件、表示。
《A.SAKAKIBARA》
木崎が身を乗り出す。
「出た」
コードレビュー履歴。
担当者
一ノ瀬ユナ。
Reviewer。
《A.SAKAKIBARA》
さらに別の記録。
《SYNC RESPONSE MODULE》
《AUTHOR:A.SAKAKIBARA》
日下部の手が速くなる。
次。
会議議事録。
《榊原》
次。
社内機材予約。
《SAKAKIBARA_A》
一度名前が見つかると
それまで意味を持たなかった痕跡が
次々と一人の女性へ繋がっていく。
城ヶ峰が言う。
「社員番号は」
「照合します」
古い座席表。
十四番。
削除された社員番号。
別のバックアップ。
末尾だけ残った識別子。
一致。
「十四番です」
日下部が言った。
「ユナさんの隣にいた人」
木崎が低く息を吐く。
「本当に、人だけ抜いてたんだな」
しかし
それだけでは終わらなかった。
日下部が過去の同期実験記録を開く。
以前見つかった
被験者情報の消されたログ。
《BOUNDARY RESPONSE》
《SUBJECT》
《SYNC》
《TRANSFER RESPONSE DETECTED》
そこに
榊原梓のコードレビュー履歴から抽出した
固有の識別値を重ねる。
完全一致ではない。
だが一部の古い内部タグが同じ形式を持っている。
日下部が眉を寄せた。
「待ってください」
城ヶ峰が見る。
「何だ」
「この実験記録」
別画面へ。
榊原が担当していた意識応答モジュール。
旧版。
さらに被験者ログ。
「同じ端末群を使っています」
木崎が聞く。
「それだけか?」
「それだけなら証拠にはなりません」
日下部は慎重に答える。
「でも、実験日」
榊原梓が会社へ来なくなった直前。
そして
前回見つかった生命維持装置の搬送記録。
すべて同じ時期に集中している。
城ヶ峰が言った。
「名前が入っただけで、線が一気に増えたな」
「はい」
日下部は新しい照合を始める。
白色コア。
過去に記録された反応波形。
現実側で見つかった削除済みの同期試験ログ。
そして
榊原梓が参加したと考えられる最後の開発記録。
「波形を重ねます」
画面に
三本の線。
一つ目。
過去の同期試験。
二つ目。
地下施設で確保された白色コア。
三つ目。
ユナが過去の記憶を思い出した時に記録された反応。
完全には同じではない。
長い年月。
境界。
記憶欠損。
別層への滞留。
条件が違う。
それでも特徴的な山。
反応開始位置。
周期。
重なる部分がある。
日下部の声が少し低くなる。
「可能性は高いです」
「どのくらいだ」
城ヶ峰が聞く。
「数値で断定する段階ではありません」
日下部は画面を見たまま答える。
「ただ」
一度、息を整える。
「白色コアが榊原梓さんである可能性を、正式な捜査仮説に上げるべきだと思います」
城ヶ峰は頷いた。
「上げる」
木崎が写真を見る。
「じゃあ」
声が低い。
「生きてるのか」
日下部は答えなかった。
白色コアが本人なら
意識は今も存在している。
だが、身体は
まだ見つかっていない。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深部】
白色コアが激しく震えた。
これまでとは明らかに違う反応だった。
Cの声が響く。
『外部名称情報を検出』
空間表示が更新される。
《名称候補》
一瞬
文字が乱れる。
《SAKAKIBARA》
白い光が大きく膨らんだ。
白峰の目が開く。
「……届いた」
カシウスも
白色コアを見る。
Cが続ける。
『照合反応、上昇』
《SAKAKIBARA AZUSA》
その瞬間、
白色コアが今までで最も強く光った。
オルガが反応を確認する。
「一致反応」
ヴァルドが低く言う。
「名前で固定され始めてる」
カシウスは白峰を見る。
「榊原梓」
白峰の表情が変わった。
「呼ぶな」
「なぜ」
「実験に使うために、その名前を固定するな」
カシウスは僅かに目を細める。
「名前が本人を固定するなら、むしろ好都合だ」
「本人を戻すためなら」
白峰は答える。
「お前が書き換えるためじゃない」
その言葉にオルガが白峰を見る。
カシウスだけはほとんど表情を変えない。
「随分変わったな」
「何が」
「昔のお前なら、結果を見たがった」
白峰は白色コアを見る。
榊原梓。
自分を信じて椅子へ座った女性。
危険を知らされないまま別世界へ送られた。
そして。
帰れなくなった。
「見た結果が、これです」
白峰が言った。
カシウスの視線が細くなる。
「君が始めた」
「分かっています」
「君が送り出した」
「分かっている」
「君が身体を私へ渡した」
白峰の手が僅かに握られる。
「それも」
声が低くなる。
「分かっている」
カシウスはさらに言った。
「なら今になって、被害者の側へ立つな」
白峰は、
すぐには答えなかった。
その言葉は正しかった。
少なくとも
逃げることはできない。
白峰は梓へ危険を伝えなかった。
戻せる保証がないのに実験を行った。
そして
匠から隠すため。
身体をカシウスへ預けた。
全部、自分が選んだ。
「被害者の側に立つつもりはない」
白峰が言う。
「私は加害者です」
オルガが僅かに顔を上げる。
カシウスも初めて完全に白峰を見る。
「だから」
白峰は続けた。
「これ以上、同じことはさせない」
カシウスの口元がほんの少しだけ動く。
「遅い」
「そうでしょうね」
「君が止めたところで、過去は変わらない」
「変える必要はない」
白峰の言葉に
カシウスの目が僅かに変わった。
白峰は自分で言ったことに
一瞬だけ気づく。
過去を変える必要はない。
かつて。
恋人を失った自分なら
絶対に言わなかった言葉。
死を取り消せない世界の方が壊れている。
そう考えていた。
今も、
失った恋人を
取り戻したい気持ちは消えていない。
それでも。
過去を都合のいい形へ書き換えることと
失った人を戻すことは同じではない。
その違いを
白峰は
ようやく理解し始めていた。
◆ ◆ ◆
その時。
白色コアから、微かな音がした。
声。
というほど明確ではない。
ノイズ。
息。
何かを外へ出そうとしている。
Cが反応を拾う。
『音声形成反応』
白峰が一歩近づく。
「梓」
今度は、自分から呼んだ。
白色コアが
強く震える。
「榊原梓」
もう一度。
光。
そして。
ごく小さく。
『……』
何か
音。
白峰が息を止める。
カシウスも。
オルガも。
聞いている。
『……ゆ……』
一音。
それだけ。
だが白峰は。
誰の名前なのか分かった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・一ノ瀬家】
ユナは突然顔を上げた。
リオが見る。
「姉さん?」
胸の奥
理由の分からない感覚。
誰かに呼ばれたような。
違う。
自分が誰かから呼ばれている。
「榊原さん」
ユナは小さく呟いた。
その瞬間。
頭の中へ新しい記憶が戻った。
白い実験室。
ガラス。
椅子。
梓。
その向こうに立つ白峰律。
ユナはゆっくり目を見開く。
「白峰さん……」
リオが表情を変える。
「何を思い出した」
ユナは呼吸を整えようとする。
だが、声が震えた。
「先輩が消えた日」
「うん」
「白峰さん……知ってた」
リオが黙る。
「何を」
ユナは
記憶の中を見る。
あの日。
自分は、研究室の前を通った。
扉。
完全には閉まっていなかった。
中から白峰の声。
そして。
もう一つ。
聞き慣れない男の声。
『成功だ』
白峰。
『戻せていない』
ユナの顔から
血の気が引いた。
「……戻せてない」
リオが聞く。
「姉さん?」
ユナは自分の口から出た言葉に
自分自身が驚いていた。
記憶がもう一つ繋がる。
白峰の声。
『私は人を捨てるために研究しているんじゃない』
そして
知らない男。
『なら戻す方法を作ればいい』
ユナはリオを見る。
「先輩は」
涙がまた落ちた。
「辞めたんじゃない」
今度ははっきり言えた。
「白峰さんの実験で、どこかへ行ったんだ」
◆ ◆ ◆
【現実世界・警察関連施設/臨時合同分析室】
日下部の端末へ
ユナから届いた追加証言が表示された。
《榊原梓》
《白峰律》
《同期実験》
《帰還失敗》
城ヶ峰が一行ずつ読む。
木崎は何も言わず古い搬送記録を見ていた。
意識。
白色コア。
身体。
大型保存装置。
名前。
榊原梓。
散らばっていたものが
ようやく一人の人間へ繋がった。
城ヶ峰が言う。
「次だ」
日下部が顔を上げる。
「はい」
「意識が榊原梓なら」
城ヶ峰は大型保存装置の搬送記録を指した。
「身体を探す」
木崎も頷く。
「生きたまま運ばれたなら」
画面。
《電源継続必須》
《温度管理》
《振動制限》
「どこかで」
木崎が言う。
「今も生かされてる可能性がある」
城ヶ峰は静かに答えた。
「ああ」
「会社を追うな」
日下部が見る。
「何を追います?」
「人を一人生かし続けるのに必要なものを全部だ」
電気。
医療設備。
酸素。
保存液。
交換部品。
搬送。
廃棄物。
金。
何年経っても
人間一人を生かし続けるなら
必ず、どこかに痕跡が残る。
画面中央。
一人の名前が。
もう消されることなく表示されていた。
《榊原 梓》