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#日本愛され
憂海歌
221
佐 岩 翔 蓮 .
13
151
昭和二十年、初夏。海軍の航空基地は、重く湿った空気に包まれていた。白日の下、緑濃い山々に囲まれた滑走路の脇には、いつでも飛び立てるようプロペラを磨かれた機体が静かに並んでいる。
その一角にある仮設の医務室兼休憩室は、消毒液と、どこか煤けたような独特の匂いが充満していた。夕暮れ時、茜色の光が窓の桟を細く切り裂いて差し込む室内。
相良柚子(さがら ゆずこ)は、薄暗い部屋の片隅で、負傷兵の手当てに必要なガーゼや包帯、そして手製の氷嚢をトレイにまとめていた。
ふと、背後から小さく肩を揺らす気配と、堪えきれないような息を呑む音が聞こえてくる。
振り返ると、そこには軍服の襟元を少し緩め、青白い顔をした乱太郎の姿があった。
出撃を明日に控えた重圧と、独特の機体の匂いや緊張感に当てられたのか、彼は床に置いた洗面器を抱え込むようにして、激しく身体を震わせている。
胃の腑から込み上げるこみ上げる不快感に耐えかねたように、乱太郎は小さく身を縮こまらせた。
柚子は慌ててトレイを机に置くと、足音を忍ばせながら彼のそばへと駆け寄る。
その小さな背中を見つめながら、心配そうに声を落とした。
「乱太郎さん……大丈夫ですか。また、あの匂いにやられちゃったんですか……」
そう言いながら、柚子は震える乱太郎の背中へとそっと手を伸ばし、優しくさすり始めた。
乱太郎は匂いに人一倍敏感だった。
喉元を詰まらせ、涙目でうつむく彼の表情は、軍人としての厳めしさなどどこにもなく、ただひたすらに痛々しいほどにか弱く、そして言いようのない艶っぽさを帯びていた。
彼は「皆と違くてすみません…」と、いつも謝ってくる。
柚子は乱太郎のその言葉を聞くと、わずかに息を呑み、そしてすぐに痛切な痛みが胸を締め付けるのをいつも感じていた。
「……謝らないでください。乱太郎さんは何も悪くないです」
そう呟く柚子の声も、少しだけ震えている。
彼女の小さな肩に乱太郎の頭が預けられ、濡れた額や毛先がすこし傷んだ柔らかい髪が自分の軍服の布地に擦り付けられるたび、彼の震えがダイレクトに伝わってきた。
乱太郎の顔には、年相応の幼さと、か細いそばかすが浮かんでいる。
皆が「お国のために」「散る覚悟を」と血気盛んに、強張った顔で空を見上げる中、彼はこうして恐怖や体調の悪さに耐えきれず、子供のように泣きじゃくりながら縮こまっている。
その弱さが、柚子には愛おしくてたまらなかった。
こんなに優しくて、空を飛ぶのが好きな子が、どうして命を散らさなければならないのか。
柚子は乱太郎を包み込むように両腕を回し、その細くて頼りない背中をしっかりと抱きしめ返した。
「みんなと違ったって、いいじゃないですか。怖くて、気持ち悪くて、泣きたくなるのは当たり前です……。私には、強くあろうとしなくていいんですよ、乱太郎さん」
そう言いながら、柚子は汚れることなど気にもとめず、乱太郎の背中や頭を優しく、まるで慈しむように撫で続ける。
柚子の手のひらは温かく、さっきまで冷え切っていた乱太郎の身体に少しずつ熱を分けていく。
「……ねえ、口の中、酸っぱくなっちゃいましたよね。お水、飲みますか? それとも、さっき隠しておいた甘いもの……少しだけ、なめます?」
潤んだ目で乱太郎を見上げながら、柚子はそっと彼の濡れた頬に親指を伸ばし、はらはらとこぼれる涙を優しく拭い取った。
乱太郎はそれを気恥ずかしそうに頬を染め目線を柚子から逸らした。
「…..水、をください」
小さく言いながら一歩二歩と柚子から離れるように下がる。
と、急に何か思い立ったように声色を少し上げて言い放つ。
「ぁ、なっ何か手伝いましょうか、?」
涙をもう一度、少し俯き軍服の袖で無造作に拭って柚子を優しく、少し頬を染めて見つめる。
「僕にできることがあればなんでも言ってください!」
柚子は乱太郎のその言葉に、胸が締め付けられるような切なさと、ほんの少しの温かさを覚えた。
さっきまで子供のように泣いてすがっていたというのに、少し息が落ち着いた途端に「何か手伝うことはないか」と、自分を気遣って照れくさそうに笑ってみせる。
そのコロコロと変わる表情や、無理をしてでも男らしくあろうとする健気さに、柚子は愛おしさが抑えきれなくなる。
「ありがとうございます。でも、乱太郎さんはまだ顔色が悪いんですから、無理しないでくださいね」
そう優しく微笑みながら、柚子は急いでコップに冷たい水を入れて、両手でそっと乱太郎に差し出した。
「はい、お水どうぞ。うがいだけでもすっきりしますから」
コップを渡すと、柚子は自分の席に戻り、トレイの上に残っていたガーゼや医療器具の片付けを再開する。
背中の方からぐちゅぐちゅぺーっと、うがいをする音が聞こえる。
背中を向けながらも、ふと気になって肩越しに乱太郎を振り返った。
「……それにしても、乱太郎さん。さっき『僕にできること』って言ってくれましたけど……本当になんでもいいんですか?」
柚子は少しだけイタズラっぽい、けれどどこか切なさを孕んだ笑みを浮かべて、乱太郎を見つめ返す。
「はい!僕にできることならなんでも言ってください!」
乱太郎はそう、年相応の青年じみた天真爛漫な笑顔で言う。
「じゃあ、出撃の時間が来るまでの間……ここで、私とおしゃべりしてくれませんか? 空を飛ぶときのこととか、乱太郎さんの好きなもののお話、もっと聞かせてほしいです」
そんなことを言うと、可愛らしく返事をしてくれる。
「ん、そんなことでいいなら、!」
乱太郎の嬉しそうにほころんだ顔を見て、胸がキュッと締め付けられるような切なさを覚えた。
こんなにも純粋な笑顔を見せる青年が、明日には二度と戻らない空へ飛び立たなければならないなんて、信じたくなかった。
用意された椅子に乱太郎が腰掛けたのを見て、柚子もそのすぐ近くの小さな丸椅子に腰を下ろす。
彼の紡ぐ言葉を聞き逃さないよう、じっとその横顔を見つめた。
「ふふ、そんなこと、なんて言わないでください。私にとって、そのおしゃべりが一番嬉しいんですから」
乱太郎はその言葉にはっとなり、目を細め恥ずかしそうに、だが心底嬉しそうに笑った。
「ぁ、何を話しましょう…。んふふ、」
はじめは恥ずかしそうにしていた乱太郎が、空の話になると少しずつ瞳を輝かせていく
「…….僕、空を飛ぶのが好きなんですよ。空を飛んでると、僕が僕じゃなくなるというか、…自由な鳥になった気分になるんです、」
乱太郎はコップを親指でさすさすと触る。
「僕たちは、今は特攻をするために、お国に命を捧げるために食事を摂り、睡眠をしています。だけど、…だけど空を飛んでる時はそんなの忘れてただ、、ただ」
少し言うのを躊躇っているのだろうか。
乱太郎は一瞬言葉を失ったが、少し間を空けてから話し出した 。
「普通の青年になった気がするんですよ、」
その姿を愛おしく思いながら聞いていた柚子は、彼が「普通の青年になった気がするんですよ」と少し躊躇いがちに告げた瞬間、胸の奥が熱くなるのを堪えきれなかった。
「……普通の、青年」
ぽつりと繰り返した柚子の声は、夕暮れの部屋の中で静かに溶けた。
責めるような気持ちなど微塵もない。
むしろ、その言葉が持つ重みと、彼が抱えてきた孤独を思うと、堪らず目頭が熱くなった。
お国のため、天皇のため、大義名分のもとに命を差し出すことが絶対とされるこの時代に、彼はただ「普通の青年」として空を自由に飛びたかっただけなのだ。
柚子は立ち上がり。乱太郎の目の前まで歩み寄る。
しゃがみ込んで彼の両手を自分の温かい両手でそっと包み込んだ。
コップをさすっていた乱太郎の親指が、柚子の手に触れる。
「うんうん……そうですよね」
柚子は優しくうなずき、潤んだ瞳で真っ直ぐに乱太郎を見上げた。
柚子の手が乱太郎の手に触れた瞬間、乱太郎が小さく零した戸惑いの声と、みるみるうちに耳たぶまで真っ赤に染めていく初々しい姿に、柚子の胸は大きく跳ねた。
(……なんて、可愛い人なんだろう)
軍服に身を包み、命懸けの任務を控えているというのに、恋を知ったばかりの少年のように照れくさそうに視線を逸らす。
その横顔を見つめているだけで、胸がいっぱいになってしまう。
その姿が愛おしくて仕方がなかっただった。
「乱太郎さんは、特攻隊員なんかじゃない。ただの、空を愛する、どこにだってみる若い素敵な青年です。……ねえ、もしその空の向こうで自由な鳥になれたら、どこへ飛んでいきたいですか?」
そう問いかけると、乱太郎は、「そ、れは、ここではない、小さな島まで」とつっかえつっかえに言った。
戦争の気配も、出撃の命令も、冷たい空気も何もない、ただ青い海と空だけに囲まれた穏やかな場所。二人きりで逃げ出せるなら、どれほどいいだろう。
「私も、一緒に連れていってほしいな……なんて、ダメですか?」
ちょっぴり困ったような、でも愛おしさを込めた微笑みを浮かべて、柚子は乱太郎の返事を待つように小首をかしげる。
柚子にそう言われた瞬間、その言葉に食いついたように、
「いっ一緒に行きましょう!」
「一緒に、2人で、」
と声を弾ませた。
その必死で、真っ直ぐな瞳の強さに、柚子はもう涙を堪えきれなかった。
「……はい」
潤んだ目を細め、柚子は溢れそうになる涙を隠すように、ぐっと唇を噛み締めてから、いっそう強く乱太郎の両手を包み込んだ。
「行きましょう、ふたりで。誰も私たちを知らない、小さな、きれいな島へ……」
そう微笑んだ柚子は、自分の軍服のポケットから、そっと小さく包まれた包みを取り出した。
「実はこれ……さっき、休憩のときに隠れてもらってきたんです。乱太郎さん、甘いもの……好きですよね?」
包みを開けると、中からぽろりと、少し不格好な手作りの金平糖がいくつか転がり出た。
ほんのりと甘い砂糖の匂いが、殺風景な医務室の空気を優しくほどいていく。
柚子は一粒をつまみ上げると、恥ずかしそうに頬を赤らめている乱太郎の口元へとそっと差し出した。
「ほら、あーんしてください。……甘いものを食べたら、少しは元気が出ますから」
そう言うと乱太郎が椅子をガタッと少し引いて、照れ隠しをするように身をよじらせる。
その耳たぶから首筋まで真っ赤に染め上げている姿は、明日命を散らす特攻隊員だなんて思えないほど、あまりにも瑞々しく、年相応の少年そのものだった。
「ん、ぇ”っ、ひっひとりで食べれますよ、!」
となんとか強がりを言いつつ、潤んだ目で上目遣いにこちらを見てくるものだから、柚子の胸のうちは愛おしさと切なさでかき乱されてしまう。
ふっと優しく目を細めると、差し出した金平糖をそのままの勢いで一歩だけ乱太郎に近づける。
「ひとりで食べられるのは知ってますけど……たまには、私に甘えてもいいでしょう?」
少しだけイタズラっぽく、けれどどこまでも優しい声でそう囁く。
そして、控えめに漏らした「あーんされたらもっと大好きになっちゃいます、」という言葉。
(そんなこと言われたら、こっちがどうにかなっちゃいそうだよ……)
柚子も恥ずかしさで火照った自分の頬を片手でそっと押さえながら、クスッと柔らかく微笑んだ。
「ふふ、その金平糖が大好きになっちゃったら困りますか? それとも……私を好きになっちゃったら、困りますか?」
からかうような、でも本音が混じった問いかけを落としながら、柚子はなおも恥ずかしそうにしている乱太郎の口元へ、もう一度そっと金平糖を差し出した。逃げ出さないように、まっすぐに彼の瞳を見つめ返しながら。
乱太郎が椅子の上でキュッと小さく三角座りになり、膝の中に顔を埋めたかと思うと、上目遣いにぽつりと「……柚子さんのこと好きになっちゃいますってぇ、、」と零したその瞬間、柚子の心臓は大きく跳ね上がり、胸の奥が甘く、そしてどうしようもなく締め付けられた。
(ずるい……そんなこと言われたら、私だって……)
溢れそうになる感情を抑えきれず、柚子はふっと愛おしそうに目を細める。そして、差し出した指先から乱太郎が金平糖をぱくりと口に含んだのを見た。
甘いお菓子を口にして、そばかすのある頬を赤らめながら「んふ、ぉいしいです、」とはにかむ笑顔は、暗い時代や残酷な運命のなかにあって、あまりにも眩しくて温かいものだった。
柚子はそっと指を引っ込めると、乱太郎の目の前までもう一歩だけ寄り添い、優しく彼の頭にそっと手を伸ばした。柔らかい髪の毛を、まるで壊れ物に触れるように、いとおしげにゆっくりと撫でる。
「……よかった。」
潤んだ瞳で見つめ返しながら、柚子はクスッと柔らかく微笑んだ。
「私も……乱太郎さんとこうしてお話しして、甘いものを分け合っている時間が、世界で一番好きです。だから、好きになってくれたって、いいんですよ……?」
少しだけ声帯を震わせながらも、精いっぱいの笑顔を作って、柚子は乱太郎の膝を抱える腕を上からそっと包み込むように触れた。薄暗い医務室の中、外のざわめきや戦争の気配なんてまるで嘘のように、ふたりの周りだけが穏やかな時間に満ちていく。
コメント
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うわ……読んでて胸がぎゅってなった……。戦時中って背景なのに、乱太郎さんと柚子さんのやり取りがすごく柔らかくて優しくて。特に「普通の青年」って言葉とか、金平糖あーんのシーン、めっちゃ刺さりました。明日出撃なのにこんなに温かい時間があるのが、逆に切なくて泣きそうになりました…。続きがすごく気になります。