テラーノベル
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走った。走った。走り続けた。
スンホは何度も足をもつれさせながら、
歩道橋を渡り、裏通りに入り、小さなコインランドリーの前にたどり着いた。
腹が痛い。
吐きそうだった。
でも、誰にも見られていないような気がした。
息を殺すようにして、ランドリーの裏側に回り込み、古びた自販機の陰にしゃがみ込んだ。
ガスの匂い、洗剤のにおい、街の雑音。
息を吸って、吐いた。
まだ生きてる、と思った。
ここまで来れば――
だが、そのとき。
静寂を破って、
コツ……コツ……と、硬い靴の足音がした。
スンホの背筋が一気に硬直する。
足音は遠くからゆっくり近づいてくる。
二人分。いや、三人分。
「……こっちの通りに入ったって言ってたろ?」
「……チッ、マジでどこ逃げたんだよ……」
「静かにしろ。声出すな。」
聞き覚えのある声だった。
あの車の中にいた男たちのうち、
あの目をした男の声。
スンホは、呼吸を止めた。
鼻の穴から、細く空気を通すだけ。
彼らはすぐそこを通り過ぎるかもしれない。
……でも、もしかしたら見つかるかもしれない。
もしここで見つかったら、
今度こそ警察なんて関係ない。
黙って消される。
「おい……これ、血……?」
ひとりの男が、歩道に落ちた赤黒いものに気づいた。
走ってる途中で、スンホが転んだときに手を擦りむいたあの血だった。
「こっちかもな。」
足音が、こちらに向かってくる。
スンホは、心の中で何度も祈った。
神でも、誰でもいい。
もう一度だけ、逃がしてくれ。
選択】
「……おい、血がこっちについてる」
「ああ。間違いねぇな……この裏手だ」
男たちの声がすぐそこまで迫っていた。
スンホは自分の右手にこびりついた血を見た。
震えていた。
息を潜めて、祈るようにして膝を抱えていたその時──
頭の中にふっと、
このままじゃまた捕まる、という確信だけが降りてきた。
(見つかる……今度こそ……)
その瞬間、スンホは小さく立ち上がった。
自販機の横に、小さな非常口のドアがあった。
「非常用 関係者以外立ち入り禁止」
鍵がかかっているかもしれない。
だが、賭けるしかなかった。
静かに、でも素早くそのドアのノブに手をかける。
ガチャ。
開いた。
内側は古いビルの非常階段につながっていた。
足音が近づいてくる。
「……おい、物音しなかったか?」
スンホは階段を駆け上がる。
息を殺しながらも、全速力で鉄製の階段を踏みしめる。
下のドアが開いた音がした。
「ちくしょう、開いてんじゃねえか!!」
「あいつか! 上行ったぞ!」
踏まれる鉄の音が、階段を追って響いてくる。
スンホは、
途中の2階の踊り場で、わざと自分の財布を放り投げた。
ジャンパーのポケットの中に、古い交通カードとレシートが入っていた。
「……おい、これ……」
男たちの足が止まった。
スンホはその間に3階まで一気に駆け上がり、
屋上の鉄扉を見つけた。
空が広がる。
だが屋上のフェンスの横、
隣のビルとのわずかな隙間に、
鉄板がかかっていた。
誰かが過去に無断で渡った形跡だ。
スンホは一瞬の迷いのあと、
靴を脱いで鉄板の上に足をのせた。
下を見ない。
息を止めて、重心を低くして、
渡った。
渡り切った。
彼らはまだ、下の階を探っている。
自分の仕掛けた“囮”がうまく効いた。
隣のビルの階段を降り、
人気のない通りに抜けたとき、
スンホの目から涙が零れ落ちた。
「……まだ、死にたくない……」
小さく、誰にも聞こえない声でそう呟いた。
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