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薄暗い廊下だった。
スペクターの館、その地下回廊。
赤いランプだけがぼんやり灯り、壁には矢印のようなスペクターのシンボルが無数に刻まれている。
ノスフェラトゥは、その前に立ち尽くしていた。
……ストリガと会った直後だった。
「逃げなさい、ノスフェラトゥ」
古代の吸血鬼。
かつて同じ世代にいた女。
黒い長髪を揺らしながら、ストリガは静かに言った。
「スペクターは危険よ」
「あなた、自分で気づいていないの?」
「もう“餌”として飼われ始めてる」
ノスフェラトゥは鼻で笑った。
「今さら説教か」
「説教じゃない」
ストリガの金の瞳が細くなる。
「あれは支配する」
「従わせる」
「最後には、自分で考えることすら奪う」
「……」
「あなたは支配が嫌いだったはずよ」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
支配。
階層。
命令。
だから反乱を起こした。
だから同胞を殺した。
なのに今、自分は何をしている?
スペクターの命令で狩りをし、
スペクターの館で眠り、
スペクターの視線一つで呼吸を乱している。
――馬鹿らしい。
そう思った瞬間だった。
「へぇ」
背後。
ぞわり、と空気が粘つく。
ノスフェラトゥが振り返るより早く、首を掴まれた。
壁へ叩きつけられる。
鈍い音。
「……ッ!」
スペクターだった。
赤いシルクハットの影の下。
その笑顔だけが異様に鮮明だった。
「随分楽しそうに話していたね」
ノスフェラトゥはすぐに振り払おうとする。
だが。
びくり、と身体が止まる。
スペクターの指が、喉元をゆっくり撫でたからだ。
「迷った?」
「……」
「ねぇ、ノスフェラトゥ」
優しい声。
だからこそ怖い。
「君、私以外の言葉を聞いたね?」
床へ押し倒される。
マントが広がる。
次の瞬間。
硬い革靴の爪先が、顎をぐ、と持ち上げた。
「ッ……!」
屈辱だった。
ノスフェラトゥの赤い目が怒りに揺れる。
だが。
身体の奥が、ぞくりと震えた。
嫌悪と、本能的な服従感覚。
それが混ざる。
最悪だった。
スペクターはそれを見逃さない。
「……かわいい反応だ」
「黙れ」
「震えてる」
「違う」
「違わない」
爪先でさらに顎を上げられる。
逃げ場がない。
スペクターはしゃがみ込み、ノスフェラトゥの仮面へ指をかけた。
「やめろ」
初めて、声に焦りが混じる。
仮面。
それはノスフェラトゥにとって鎧だった。
古代吸血鬼としての誇り。
怪物である自分を隠す最後の境界線。
だがスペクターは笑うだけ。
「命令だ」
カチ、と留め具が外れる。
濃赤の仮面が床へ落ちた。
甲高い音が響く。
露わになる顔。
長い黒髪。
鋭い牙。
そして――ぺたり、と伏せた三角の耳。
ノスフェラトゥは唇を噛む。
屈辱だった。
耳は感情を隠せない。
恐怖も、
動揺も、
快感すら。
全部、見透かされる。
スペクターはその耳を見て、愉快そうに目を細めた。
「ああ」
「やっぱり再教育が必要だね」
ぞく、と背中が粘ついた。
スペクターの指先が耳の付け根をなぞる。
ノスフェラトゥの肩がびくりと跳ねた。
「……ッ、触るな」
「ここ、弱いんだ」
「やめろ……!」
怒鳴る声とは裏腹に、耳は完全に伏せ切っていた。
まるで怯えた獣みたいに。
スペクターはそれを見下ろしながら、静かに囁く。
「大丈夫」
「君はもう考えなくていい」
「私だけ見ていればいい」
その声音は、恐ろしいほど甘かった。
ノスフェラトゥは睨み返す。
だが。
喉の奥から漏れた呼吸は、もう怒りだけではなかった。
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