テラーノベル
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アグネスの瞳にはいまにも溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「ノアが生まれてきてくれなければ、男性からドレスを贈りたいと言われて胸の奥がこそばゆくなるようなうれしくなる気持ちも、アイスティーにはシロップを入れると甘くなるという流行のことも、人と手を繋ぐ温かさもそのつなぐ手から幸せな気持ちが湧き出ることも、女神様の誕生祭で憧れの「愛」の象徴の百合の花を耳に挿してもらう胸のときめきも、ダンスがあんなに楽しいものだということも、すてべは…すべてはノアが生まれてきてくれたから、わたしは知ることができた。ノアだったから…だ…だから、生まれてきてはいけなかったなんて言わないで」
ぼろぼろと次から次へとアグネスの頬を何本もの涙が伝う。
「……アグネス」
「ノア、まだわたしたちは出会って3日だけど、わたしはこの3日間が生きた中で1番幸せな時間でした。わたしはノアに恋をしてしまいました。ノア…ずっと大好きよ。いつかわたしが消えても忘れないで」
(わたしはなにをノアに告白したの。あと4日で消える身なのに…)
カタカタと震えるアグネスの祈る手をノアは自分の大きな両手で優しく包み込み、アグネスを引き寄せた。
「忘れるってなんだ?これから俺たちはずっと一緒だ。俺もアグネスが好きだ。アグネスが俺のことを知らない頃からずっとずっと好きだった」
アグネスは顔を上げ、すぐ近くにあるノアの瞳を見つめる。
「……うん……」
ノアの真っ直ぐに見つめてくる瞳を逸らすことができず、ノアの気持ちを受け止めるように小さく頷くだけで精一杯だった。
ノアが温かく包み込んでくれている自分の手から、ノアへの溢れる想いがいまにも伝わっていきそうだ。
そして、いつものノアの瞳の奥にある深い悲しみのような憂いがなくなり、いまのノアの瞳はまるで澄み切った空のようにアグネスだけが映っている。
(わたしだけが映っている。ノア…ごめんなさい。あと4日でその瞳からわたしは消えるのに…)
「ノア、これを」
アグネスはノアの手に包み込まれていた手をほどき、自分の右耳に挿したままになっていた百合を耳から外し、ノアの耳に挿した。
「そうか…あの時、演習場でレオンになったからそのままだったな」
かけがえのない思い出となった今日のこと。
いろいろあったが、幸せで楽しかった1日にふたりは想いを巡らせ、お互い笑顔で見つめ合う。
「そうなの。これはわたしからノアに「愛」を。ずっと、ずっと…愛しているわ」
その言葉にノアは瞳を大きく揺らした。
そして、ランプひとつの明かりしかない薄暗い部屋に差し込む月光に包まれていまにも消え入りそうな儚げなアグネスを抱き寄せると、アグネスの身体に顔をうずめ、温かい体温を確認するようにきつく抱きしめ、顔を上げるとアグネスの瞳を見つめた。
「俺もだ」
ノアは言葉ではアグネスに伝えられない愛おしく思うこの想いをその大きな手で伝えるかのように、ノアは何度も何度もアグネスの頭を撫で髪の毛を梳く。そして、アグネスを再び強く抱きしめた。
「それでね、ノア」
ノアの腕の中にいるアグネスは、ノアの早い鼓動と安心できる温かさを感じ幸福感がとめどめなく溢れる。ノアの胸に額をつけるとノアに話しかけた。
「ランドルフ殿下とわたしが人質交換だということは以前から知っていたのよ。司祭様たちがわたしを怒鳴りつける時は「お前は人質だ。ランドルフ殿下もお前もお互い殺されたくなければ逃げるな」と脅していたから。ノアがランドルフ殿下だと微塵も思わなかったけど、お兄様の従者として、一緒に山奥の大聖堂に来てくれていたのは知っている」
「えっ?」
「面談室の扉の隙間からノアの姿が見えていたのよ。でも、ノアと初めてこの部屋で会った時、お兄様の従者とノアが最初は結びつかなかったわ」
そう言うと、アグネスは少し苦笑いをした。
「ノアはずっと悩んでくれていたのよね。自分の存在がこの人質交換を成立させてしまったと。それなら、わたしが生まれてこなかったほうがよかったということにもなるわ」
アグネスのその言葉に衝撃を受けたような表情をするノアにアグネスは微笑んだ。
「それにね。いまノアに話しながら思い出したのだけど、わたしとお兄様が殺されたとき、一番にわたしたちに駆け寄って助けようとしてくれたのはノア、あなただったのよ」
アグネスは自分の瞼の奥に焼き付いているあの凄惨な光景を思い出すかのように瞳を閉じた。
誰かがわたしの名前を呼ぶ声。
あれはノアだったのね。
そして、薄れゆく意識の中ではっきりと見えた、いつも山奥の大聖堂に来るときは一緒だったお兄様の従者の方が倒れるお兄様とわたしの傍に駆け寄り、剣を抜いて暗殺者と対峙しているところを。
あれはノアだった。
ノア、ありがとう。
死に際にその光景を見て、自分やお兄様のことを思ってくれる人がひとりでもいるとわかり、あの時はそれだけで絶望の中で死んでいくことはなかった。
「未来の俺がアグネスやレオンの一助になれていたのなら、本望だ」
ノアはそう言うと、顔をくしゃみと歪めて大きな手で自分の顔を覆った。
ランプの灯がゆらゆら揺れて、静かな部屋でノアが肩を震わせ嗚咽を堪えているのがわかった。
#死に戻り
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