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【電話】
補佐が気遣うように私を見た。
「俺のことは気にしないでいいんだよ」
「ありがとうございます。でも急用だとは思えませんから……」
私は画面を見てそう答えながら、マナーモードに設定を変えようとした。
電話が再び鳴ったのはその時だった。
私は慌てた。まさかと思って目をやった画面には、案の定宍戸の名前が表示されていた。
「同じ人からの電話なら、出た方がいいんじゃない?俺は向こうに行っているから」
「でも……」
どうしようかと迷う私の手の中で、今度の電話は止まる気配なく鳴り続けている。
これは補佐の言う通り、早く電話に出てしまった方が良さそうだ――。
私は諦めてさっと立ち上がると、早口で補佐に告げる。
「申し訳ありません。補佐はどうぞこのままここにいらして下さい」
「あ、岡野さん!」
引き留める補佐の声には答えずに、私は急いで彼がいるベンチから離れた。水銀灯の灯りの輪の中に移動すると、画面上の電話マークをタップして耳を当てる。夜だし外だから、私は声を低くして電話に出た。
「もしもし。お待たせしました……」
補佐がいる場所まで声が届くとは思えなかったが、彼の耳を気にした私の口調は改まったものになっていた。
それを聞いたからだろう、電話の向こうで戸惑うような気配がした。
私はもう一度呼びかけた。
「もしもし?」
ようやく、ためらいがちに反応が返ってきた。
―― あ、と、ごめん。えぇと、俺だけど。今、忙しかったりした?
「出るのに少し手間取ってしまっただけ」
私はそう答えながら、ちょっとだけ不思議な気持ちになっていた。
これって、電話の相手は宍戸なのよね……。
電話を通して聞こえてくる声はいつもと微妙に違っていて、その上、耳のすぐそばで話しかけられているような感覚は近すぎて、なんとなく照れ臭いような気持ちになった。むずがゆいような違和感を振り払いたくて、私はつい憎まれ口を叩いてしまう。
「俺だけど、って言い方、一応そこは名乗るところでしょ?」
―― だって、俺からの電話だって分かって出てるんだろ?なら、別にいいじゃん。
その口調や返し方はやっぱり宍戸に違いないと納得する。
「それはまぁ、そうなんだけど……」
この同期が相手だと、どうして私までつられたように一言も二言も余計なことを言ってしまうのだろう。
自分に呆れながら私は話を戻す。補佐を待たせているのだから、早く電話を終わらせたかった。
「いったいどうしたの?宍戸が私に電話をかけてくるなんて、珍しいわよね」
宍戸は補佐ほど忙しいわけではなさそうだから、会社でだって話す時間は取れそうなものなのに、と思う。
―― そうだった?
私の問いをはぐらかすようにそう言ってから、彼は私に訊ねる。
―― 岡野は、今、ウチにいるのか?
誰とどこにいるかまで宍戸に詳しく話す必要はない。だから私は簡単に答えた。
「外よ」
短い間が空いた後に、宍戸の声が聞こえた。
―― もしかして、誰かと一緒だった?
「えぇ」
そう即答してから、宍戸の声に引っかかりを感じた。苛立ちのようなものが滲んでいたような気がした。なぜだろうと思ったが、今は深く考えている暇はない。私は、なかなか本題に入ろうとしない宍戸を話に引き戻そうとした。
「それよりも何かあったの?急ぎの用?」
―― いや、急ぎとかそういうわけじゃないんだけど……。
奥歯にものが挟まったような、いつもの宍戸らしくない言い方をする。
別人のようだ、と私は怪訝に思った。いつものような、憎たらしいくらい歯切れの良い言葉遣いや勢いはどこに行ったのだろう。
彼は今夜、先輩たちと飲みに行ったはずだ。そこで何かトラブルでもあったかと心配になる。その気晴らしか、あるいは愚痴や文句なんかを仲の良い同期の私に聞いてほしくて、電話をかけてきたのだろうか。しかし、実は気づかい屋の宍戸がそんな事態に巻き込まれることはほとんどないと思うのだ。
彼の話の内容が気にはなったが、今はそれ以上に、補佐を待たせていることの方が気になった。早く電話を切らなくてはと焦り出し、私は早口で言った。
「宍戸、ごめんなさい。急ぎじゃないなら、電話を切ってもいいかしら。話だったら明日にでも会社で聞くから。人を待たせているの」
―― あ、そうだったよな。悪かった。……帰りはあんまり遅くなるなよ。
まるで保護者のような言葉だと内心苦笑する。
「ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」
結局宍戸の用件は何だったのだろう。私は首を捻りながら電話を切った。
明日聞けばいいか――。
すぐに頭を切り替えて、私は補佐が待つベンチへ戻った。
補佐の側まで戻った私は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「もういいの?早かったみたいだけど」
「はい。特に急用ではなかったようなので」
私は補佐から少し離れて腰を下ろす。
「一体なんの用だったのかも分からないような電話でした」
「友達?」
「いえ、それが……。宍戸からでした。どことなくいつもと様子が違っていて、いったい何の話だったのか分からなくて」
「宍戸?」
補佐の眉が僅かにぴくりと動いたような気がした。けれどそれは一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな顔つきとなる。
「岡野さんは宍戸と同期だったね。その中でも特に君たちは仲が良さそうだ」
「それはどうでしょう」
私は眉根を寄せた。
「私たちが特別というわけではなくて、私の同期たちはみんな仲がいいと思います」
「そうかな」
補佐は意味ありげな笑みを口元に刻んだ。
「その中でもやっぱり、宍戸は特に岡野さんには気を許しているんじゃないか?」
宍戸との掛け合いのような会話の場面を、補佐は何度か見ている。だからそんなことを言うのだろう。
しかし私は即座に否定した。
「そういうのとは違うと思います。宍戸は私をからかっているだけなんです。私の反応を見て面白がってるに決まってます」
「本当は苦手なの?」
「そんなことはありませんけど。優しい所もたくさんあって、いい人ですし。まぁ、私もその度に言い返したりして、ちょうどいいストレス発散になっていると言えば言えるかも……」
「なるほどね」
何かを納得したようにそんな相槌を打ち、言葉を続ける。
「岡野さんは、もっと自分の周りに目を向けてみた方がいいかもね」
「どういう意味ですか?」
その言葉の意味が分からず、私は訊き返した。
しかし補佐は曖昧に笑っただけで何も言わない。すっと立ち上がり、私の目の前に手を差し出した。
「帰ろうか」
「あの……?」
私はその手を取るのを躊躇した。
そしてそのことに気づかなかったとは思えないのに、補佐は自ら手を伸ばして私の手をそっと取る。
「送るよ」
心拍数が跳ね上がったまま、私は彼の手に引かれるようにしてふらふらとベンチから立ち上がった。その時うっかり足元のバランスを崩してしまい、私は補佐の胸元に衝突しかけた。
「おっと!」
「すみません!」
今夜はこれで二度目だ――。
自分の粗忽さを恥ずかしく思いながら、私は慌てて体勢を戻す。その時私の耳が彼の小さなつぶやきを拾った。
「なんだかもやもやした気分だな」
気になって見上げた補佐の表情からは、その意味を窺い知ることはできなかった。
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