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「一旦退くよ、グリュエー」とユカリは呼びかけるが風は吹かない。
アンソルーペの振り抜く鎚矛を、ユカリはリンガ・ミルの剣で防ぎつつも衝撃で押し飛ばされる。
慌てて体勢を整えつつユカリは再び呼びかける。「またどこかに行ったの!? グリュエー!?」
「空見て、ユカリ」とグリュエーが答えた。
見上げた空には蝗害の如く無数の矢が飛来し、渦巻吠えるグリュエーが残さず叩き落としている。それはアンソルーペが率いてきた焚書官たちの放った矢だ。自分達の長も、その周囲で昏倒している仲間たちもいるのに全く気にかけていないというわけだ。
グリュエーに矢を任せて、ユカリが一人走るか、あるいは魔法少女の杖に跨っても馬を振り切るのは難しい。その前に蓄えた空気が尽きる可能性もある。グリュエーに背中を押してもらったならば逃げ切れる速さは得られるかもしれないが今度は矢を防げない。
「死ぬまで余所見しとけ!」アンソルーペの振り上げる鎚矛が地面を抉り、土埃と礫を飛ばす。
剣で防ぎきれない沢山の礫を浴びせかけられたユカリは悪態をつくのを堪え、退きながらも再び魔導書の靴から瘴気を溢れ返す。
この魔導書の瘴気は、浴びれば昏倒するわけでも、吸えば昏倒するわけでもない。昏倒させるかどうかは術者の任意だ、とユカリは靴を履いた時点で直感的に認識させられた。瘴気を吸った者を昏倒させないこともできる。それゆえに焚書官たちの騎乗していた三十頭の馬を昏倒させずに済んだのだが、いま目の前にいるアンソルーペは確かに瘴気を吸っているのに気を失わない。この魔導書に対抗できるような魔法でも持っているのだろうか。
しかしこの魔導書がこの場で役立たずというわけではない。初秋の朝に立ち込める谷間の霧のように白くて濃い瘴気は単純な目くらましとして有効で、この広い草原から身を隠して逃げるには物足りない体積だが、ユカリが鎚矛の脅威から逃れる助けになっている。
輝きが目印になりかねないのでユカリは魔法少女の杖を消し、つかず離れずアンソルーペとの距離を保つ。
「ああああ! 鬱陶しい!」アンソルーペが鎚矛を滅茶苦茶に振って瘴気を晴らそうとするが、ただの煙と違って常に魔導書から供給され続ける魔法の煙が消え去ることはない。
ユカリの方も相手の姿は全く見えないが、その煙たげな怒鳴り声でアンソルーペの位置の把握は難しくなかった。
瘴気に紛れて不意を突きたい。魔法少女に変身すれば履いている魔導書の靴が一時的に消えてしまうので、ユカリは身を屈めて息を潜め、慎重に近づかなくてはならない。かといって下手に突出して鎚矛を食らえばひとたまりもない。しかし上手く食らえば勝ち目があるはずだ。
アンソルーペの利き手ではない左手側から回り込むようにして近づく。怒号と共に右に左にと振られる鎚矛を見極め、我が身にぶつかる瞬間に合わせて飛び出し、呼び出した杖で受け止め、その重みで弾き飛ばされる前に鎚矛の柄を【噛み千切る】。棘球付きの柄が真ん中で派手な音を立てて砕け、棘の鉄球が勢いよく飛んで行く。不意な攻勢に怯むアンソルーペにユカリは【息を吹きつける】。ユカリの魂がアンソルーペの体を乗っ取った。
アンソルーペは倒れ掛かるユカリを優しく抱きとめるが、その瞬間頭の中で耳障りな声が打ち付けるように響いた。「出て行け!」
途端にユカリの意識がユカリの肉体に戻り、アンソルーペに突き飛ばされ、地面に倒れてしまう。【憑依】の方にも対抗策があるとは思いもよらず、ユカリは少しばかり困惑する。
辺りが晴れ始めていることに気づいて、ユカリは新たに瘴気を放出する。しかし姿を隠す前にアンソルーペにのしかかられてしまった。抵抗するも鎧の重さもあって身動きが取れない。腹に乗られて抑えられている状態では魔法少女になっても抜け出せないだろう。アンソルーペが下品に笑いながら、地面に転がっている柄の短くなった棘球を持ち上げる。
「お互い不格好な幕切れだなあ! 魔法少女じゃない誰かさんよお! がっかりだぜ!」
上から振り下ろされる棘球を真珠剣が防ぐが、その重さには抗えない。押し込まれる棘球を両手で握ったリンガ・ミルで何とか抗するが、アンソルーペは更に体重をかける。棘がユカリの顔に迫る。棘球が乾いた血に汚れていることに気づく。
「チェスタはお前を警戒しろとか、何とか言ってたんだがなあ!」棘球を押し込みながらアンソルーペが言う。
ユカリは初めて出会った首席焚書官、チェスタのことを脳裏に思い返す。そのようなことを言う人間だっただろうか。ユカリには意外に思えた。だが過大評価も過小評価もしない、よく言えば正直で悪く言えば冷徹な、そんな人間だったかもしれない。
「あなたもいずれ同じ台詞を誰かに言うことになるでしょうね!」真珠剣を押し返しながら食いしばった歯の隙間から漏らすようにユカリは言う。
「言うねえ。少なくともがきにしては膂力があるようだ」
半分以上が真珠の刀剣リンガ・ミルの力だがユカリがそれを教える義理もない。
覆いかぶさるアンソルーペの後ろの空ではグリュエーが奮闘し、晩秋の木枯らしに翻弄される枯れ葉のように焚書官の矢が舞い散り、なすすべもなくユカリたちの周囲に降っている。しかし矢はまるで降りやむことを知らず、次々にグリュエー目掛けて飛来してはばらばらと落ちていた。
ユカリはその状況に一つの好機を見出す。
「グリュエー! やっぱり逃げるよ! 備えて!」
「でも矢が。後ろから射かけられるよ」
「良いから! 信じて!」
頭上の風がぴたりと止む。見えない屋根が失われ、豪雨のように矢が降り注ぐ。ユカリは【微笑みを浮かべた】。魔法少女に変身する。代わりに靴の魔導書は姿を失い、瘴気が晴れ始める。
腹にのしかかるアンソルーペの鎧の重さに嗚咽を漏らす。しかしアンソルーペもまたそれ以上に悲痛な悲鳴をあげ、棘球を取り落とした。
「いてえ! くそ! どういうことだ! てめえら! どこ狙ってやがる!」
どこを狙うも何も、まさかあの数の曲射が全て狙い通りのところに降り注ぐとでも思っていたのだろうか、とユカリは呆れる。そうでなくても首席焚書官が的である魔法少女に馬乗りになっていたことは弓兵たちにも分かっていたはずだ。
思った以上に上手くいくが気を緩めることなく、鎧の陰になったユカリは馬乗りになって身悶えるアンソルーペを逃がすまいと衣をつかんで引き倒し、矢が降り止むその時まで黒衣を傘にして神に祈る。
「てめえ! こら! 離せ! いてえ!」
しばらくして、とうとう手持ちが尽きたのか、矢は止む。ユカリたちの周囲の地面には数えきれないほどの矢が突き刺さっていた。どれほど激しい戦場でもこうはなるまい。
魔法少女の小さな体のほとんどはアンソルーペの陰に隠れており、はみ出していた痩せっぽちの足にも矢を受けずに済んだのは幸運だ。
アンソルーペもまだ生きている。鎧のお陰か運が良かったのか致命的な怪我は避けられたようだ。血に塗れ、矢傷でずたぼろの黒い衣を押しのけ、手についた血を拭うとユカリは立ち上がる。
さっきまで矢を放っていた僧兵たちは困惑した様子でこちらへ駆けつけようとしていた。立ち上がるユカリを見ても次の矢を番える様子はない。番えたところでグリュエーに叩き落とされるだけだと悟ったのだろう。
ユカリは元の姿に戻って言う。「やっぱり駄目だ。足痛い」
「大丈夫! ユカリ、怪我したの?」とグリュエーが優しく吹き寄せる
「ううん。靴がね。慣れないなって」いつもの靴に履き替えて魔導書の靴は合切袋に片づける。この踵の高さではまともに走れない。「グリュエー。行くよ。全速力で追いかけないと」
そうして北へ目を向けて、グリュエーと共にもはや姿の見えないベルニージュとユビス、レモニカとシャリューレを追って走り出す。