「屋久蓑部長、キミにはやはり再来月から予定通り副社長に就任してもらうから」
その話なら先日土井社長の家で〝見送り〟という形で話が付いたはずだったのに。
そう思った羽理がオロオロと大葉を見上げたら、彼も同じことを思ったらしい。
「社長。その話なら先日すでについたはずじゃないですか」
大葉の言葉に彼のすぐ隣でコクコクと頷く羽理を見て、土井社長がフッと幽かに微笑む。
「それでね、荒木さん。キミには今月いっぱいで一旦うちの社を離れてもらおうと思う」
土井恵介の言葉に、その場にいた全員が一瞬にして固まった。
「ちょっ、社長、それはっ」
すぐさま大葉が抗議しようと立ち上がり掛けたのだけれど、土井社長にスッと手を挙げられて言動をさえぎられてしまう。
***
「それでね、倍相くん。次はキミの番だ」
恋人の一大事に腰を浮かせかけた屋久蓑大葉を手と視線だけで制すると、土井恵介が今度は岳斗をひたと見据えてくる。
荒木羽理のことに関しては自分も言いたいことは山ほどあったけれど、甥っ子の大葉ですら反論させてもらえなかったのだ。自分に何か言えるとは思えなくて……。だけどやっぱり今はまだ荒木さんの直属の上司は自分だと思い直した岳斗である。
「あの……こちらを去る身で口出しするのはどうかとも思ったんですが、さすがにこれは財務経理課を預かってきた者として言わせてください。僕が居なくなる予定なのに、荒木さんまで……というのはどう考えても無謀です。もちろん法忍さんも優秀な部下ですが、一人だけで回せるほどうちの課は処理量が少ないわけではありませんよ?」
岳斗がそう言った途端、土井恵介がニヤリと笑った……ように見えた。
「まぁ、倍相くん。そう熱くならなくてもよくないかな?」
実際にはさして表情を変えないまま、のほほんといった調子で岳斗をなだめると、土井社長がおもむろにスーツの懐へ手を入れて、白いものを取り出した。
「――で、ここからが本題。先日屋久蓑部長から預かった、キミのこれなんだけどね」
社長からスッと机上に差し出された封書を見て、岳斗は思わず動きを止めた。
「あの……」
「うん、キミの退職願だね」
言われなくても封筒の表にそう書かれているのが岳斗にだって見える。というより岳斗自身が書いたものなのだから、今更そんな説明は必要ないだろう。
「実は僕はこれ、まだ中を見てないんだ」
言って、土井社長が置いたばかりの封書を手に取ると、岳斗の目の前でビリリッと真っ二つに破り割いてしまう。
「あ、あのっ」
何が何だか分からなくて思わず岳斗が手を伸ばしたと同時、土井恵介が今度こそニヤリと笑って言うのだ。
「で、今見てもらったように、僕はこれを受理するつもりはないから。倍相くんはこのままうちの財務経理課長でいて?」
なんて勝手な言い分だろう。
いくら社長でも社員の意向を無視し過ぎではないか。
そう思った岳斗は、スッと表情を消すと感情を感じさせない目で土井恵介を見詰めた。
「そんなことをされても僕がここを去る意思に変わりはありません」
「どうして? キミはさっきも言ってくれたみたいにうちの財務経理課のことを誰よりも気に掛けてくれているのに……」
「それとこれとは話が別です」
「一緒だと思うんだけどな?」
「話になりませんね」
「そうかな? 例えば……なんだけど。美住杏子さんをうちの財務経理課に引き抜くって言っても、同じことが言える?」
いきなり土井社長の口から愛しい彼女の名前が出てきて、岳斗は思わず言葉に詰まった。
「あ、あの、社長。おっしゃられている言葉の意味が……」
「そう? 的外れなことを言っているつもりはないんだけどな? 倍相くん、僕はこう見えても一応土恵の社長だからね? 社員のことはある程度把握しているつもりだ」
言って、ちらりと大葉たちに視線を投げかけると、まるで自分に全て任せておきなさい、というみたいにコクッとうなずいてみせた。
「キミがアンちゃん……あ、美住さんね。彼女のことをそこまで想ってくれているっていうのは正直驚いたけど……僕はアンちゃんのことを小さい頃から知っているし、倍相くん同様、彼女が不幸になるのを見過ごすことは出来ないんだよ。幸い彼女のお父さんを通じてアンちゃんからの了承も取り付けられた。だから、遠慮は要らないよ?」
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どうなっちゃうの!?