「……社長。僕がこちらを辞めたいのは杏子ちゃんのことだけが原因というわけでは――」
そこまで言った岳斗だったけれど、その先を告げるにはいけ好かない父親とのことも話さねばならない。そう思って、つい言いよどんで視線を落としたのだけれど。
「ねぇ倍相くん。僕はさっき、キミに言ったよね? 僕は土恵の社長として、社員らのことをある程度は把握してる、って。そこにはキミとお父様との事情も入っているんだけどな?」
あえて話すまでもなく、花京院岳史とのことを知っていると仄めかされた岳斗は、「でしたらっ!」と思わず感情をあらわにしてしまっていた。
日頃心の機微を表に出さないよう心掛けている岳斗には珍しいことだったが、それくらいセンシティブで、そこへ触れるには相当の覚悟がいるのだと土井社長にも分かって欲しいと思ったのだから仕方がない。
「ねぇ倍相くん。キミはお父様と何の取り引きをしたの?」
それは裏を返せば、何に縛られているの? と問われているのと同義だと岳斗は解釈した。
「僕は……杏子ちゃんを助けるために父の威光を使いました。そうしたということは、父の会社を継ぐ跡取り息子だと認めるということだと解釈するがいいんだな? と言われました。僕は……そんな父の提案を受け入れたんです。……杏子ちゃんを守るために、僕は『はなみやこ』へ行かねばなりません」
そうしてそれは、例え杏子を土恵に連れてきたところで、反故には出来ない契約なのだと岳斗は思っている。
花京院岳史のことだ。
今さら、『貴方の威光は必要なくなりました』と告げたところで、あの手この手で岳斗を逃がさないようにするはずだ。
認めたくはないけれど、『はなみやこ』のような大きな会社に歯向かうのは、土恵商事にとっても大きなリスクを伴うだろう。
自分一人のために、そんなことをさせられるはずがない。
「……杏子ちゃんのことは是非お願いしたいです。僕は正直コノエ産業がどうなろうと知ったことじゃありません。杏子ちゃんがあの会社から解放されるというのなら、あそこに介入するなんて無駄な労力を使わず、そのまま心置きなくはなみやこの方へ行けますので助かります」
本当は岳斗だって土井社長の申し入れを受け入れて、このまま土恵で働きたい。だが、自分に良くしてくれる相手だからこそ、自分もそれに報いなければいけないと思ったのだ。
「おい、岳斗……!」
そこで大葉が思わず口を挟んだのは、大葉にとって一番大切な女性――荒木羽理――のことが宙ぶらりんになったままだからだろう。
杏子が入るために、荒木羽理が押し出されるのだということに、岳斗だって気が付かないわけじゃない。そこに関しては申し訳なく思っているし、荒木さんがどういう扱いを受けることになるのか気になるところだ。
だが、土井社長はそんな甥っ子をちらりと視線だけで制すると、岳斗との会話を優先することを選んだ。
「心置きなく? ねぇ倍相くん、キミはそんなバカげたこと、本気で言ってるわけじゃないよね?」
本気で思っていると即答すべきだし、出来ると思った。なのに一瞬だけ返答に詰まって視線を逸らせてしまった岳斗を見て、土井社長は確信したように言うのだ。
「もしもキミがうちに居残ることで土恵に損害を与えるかも? とか思ってるんだとしたらそれは大きな間違いだ」
その言葉に岳斗が土井社長の方を見たと同時、「今までだってキミがうちで働いてきたのに『はなみやこ』は手出ししてこなかったでしょう?」と、土井恵介が微笑んで見せる。
その言葉を聞いて岳斗はハッとさせられて――。
「社長……それは……」
「キミは『はなみやこ』の跡取り息子だ。勝手に調べて申し訳ないんだけど……倍相くんは現時点でも『はなみやこ』で結構な共益権を有する株主なんじゃない?」
土井社長が言うように、岳斗は会社を継ぐと思われていた頃、花京院岳史からはなみやこの二.八パーセントの株を譲渡されている。
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