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潮の匂いが、湿った風と一緒に胸の奥まで染み込んでいく。
母方の祖母の家に着いたその日の夕方、私はひとり海へ向かって歩いていた。
アスファルトに照り返す陽射しはまだ熱く、蝉の声がじりじりと耳を包む。
小学生の頃、ここで過ごした夏休みをふと思い出す。自由で、長くて、永遠に続くように思えたあの夏。
堤防を越えた瞬間、視界いっぱいに夕陽が広がった。
海面はオレンジに染まり、ゆるやかな波が反射してきらめく。
その光の中に――ひとりの女の子が立っていた。
白いワンピースの裾が風に揺れ、髪が陽に透けて金色に近い茶色を帯びている。
足先で波を蹴るその横顔は、どこか夢の中の光景のようだった。
私に気づいた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
「……観光?」
声は掠れていて、でも耳に心地よく残る低さだった。
「あ、うん。夏休みだけ、母方の祖母んち」
「珍しいね。この町に来る高校生なんて」
その瞳は透き通っているのに、奥底に深い影が見えた。
「君は?」と聞くと、彼女は少し笑って、
「地元の人。夕方はだいたい、ここにいる。……海が好きだから」
と答えた。
その笑みは柔らかく、だけど、どこか壊れそうだった。
それ以上踏み込むのが怖くて、私はただ並んで夕陽を見た。
次の日も、その次の日も、夕方になると海へ向かった。
堤防を越えると必ず、彼女がいた。
私たちは他愛ない会話をし、笑い合った。
「都会って夜でも明るいんでしょ?」
「うん。星はほとんど見えない」
「ふーん……息苦しそう」
そう言って彼女は視線を空へ向ける。
時々、軽く咳き込むような仕草をするけれど、すぐに「なんでもない」と笑った。
気づかないふりをした。聞いたら、この穏やかな時間が壊れてしまいそうで。
⸻
八月半ば、町の花火大会の夜。
浴衣姿で現れた彼女は、水色の朝顔柄をまとい、灯りに照らされて一段と儚く見えた。
「似合ってる」
「……ありがと。君も、今日はちょっとマシ」
「“ちょっとマシ”ってなに」
笑い合う声が夜風に溶ける。
大きな花火が夜空を裂き、火薬の匂いが漂った。
彼女は見上げながら、ぽつりと呟く。
「来年も……一緒に見られるといいね」
「うん。絶対来る」即答した。
でも、横顔の笑みがほんの少し震えていて、心臓がきゅっと縮まった。
⸻
翌日、彼女は海に来なかった。
その次の日も、そのまた次の日も。
落ち着かないまま地元の人に聞き、彼女の家を訪ねた。
出てきた年配の女性が、静かに言った。
「……あの子は病院に行ったの。持病が悪くなってね」
頭が真っ白になった。
昨日まで笑っていた彼女の姿が頭をよぎり、胸の奥が痛くなる。
声をかけることもできず、ただ深く頭を下げてその場を離れた。
⸻
夏休み最終日。
駅へ向かう道は、いつもより蝉の声が弱く、空気が湿って重かった。
ホームに立つと、潮の匂いが遠くから運ばれてくる。
電車に乗り込み、最後に海の方を見やる。
――そこ に、彼女が立っていた。
白いワンピース、風に揺れる髪。
笑顔はあの日のままで、けれど、薄い光の中で滲んでいた。
次の瞬間、電車が揺れ、視界から消えた。
窓の外、波打ち際の光が揺れる。
耳の奥で、あの声が響く。
_また来年。
その約束が、もう二度と叶わないことを、私はまだ信じたくなかった。