テラーノベル
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朝霧が立ち込める早朝の駅のホームで、二人は固く手を握りしめていた。背負ったリュックサックには、わずかな着替えと、出木杉がこれまでの模試や大会で貯めてきた賞金、そして静香が大切にしていた最低限の身の回り品だけが詰め込まれていた。「もう、誰もいない場所へ行こう」
出木杉の言葉に、静香は小さく頷いた。彼女の制服のスカートの下、まだ目立たない腹部には、二人の生きた証が確実に宿っている。学校の成績、親の期待、将来の約束されたエリートコース。それらすべてを、出木杉は一通の置き手紙とともに机の中に残してきた。
列車が滑り込んできたとき、二人は一度だけ自分たちが育った街の方向を振り返った。だが、そこにあるのは未練ではなく、決別だった。
たどり着いたのは、誰も二人を知らない遠く離れた海辺の町だった。出木杉は名前を偽り、重い荷物を運ぶ労働や、夜間の仕事に身を投じた。かつてペンを握っていたその手は、またたく間にマメができ、荒れていった。しかし、夜、狭いアパートの一室で静香の膨らんだ腹部を撫でるたび、彼はこれまでに感じたことのない全能感に満たされた。
静香もまた、慣れない自炊や家事に追われながらも、出木杉が帰宅する足音を聞くたびに、深い安らぎを感じていた。毎晩、二人は狭い布団の中で体を寄せ合い、外の世界から隔絶された二人だけの王国を守り続けた。
「ねえ、出木杉さん。後悔していない?」
「後悔なんて、論理的にあり得ないよ。僕の人生の正解は、最初からここにしかないんだから」
出木杉は、彼女の額に優しく口づけをした。
月日は流れ、静香の腹部ははち切れんばかりに膨らんでいった。ある嵐の夜、ついにその時が訪れた。出木杉は自らお湯を沸かし、教科書には載っていない「生命の誕生」に立ち会った。
産声が狭い部屋に響き渡った瞬間、二人は涙を流しながら笑った。自分たちの選択が、ひとつの新しい命として形を成したのだ。
追っ手も、世間の目も、もはや二人を縛ることはできない。彼らは社会から消えた存在となったが、その代わりに、剥き出しの愛と、自分たちの手で掴み取った過酷で美しい現実を手に入れた。
夜の海鳴りを聞きながら、三人は一つの塊のように眠りについた。それは、かつての神童とマドンナが、一組の「父と母」になった瞬間だった。
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