テラーノベル
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鍵の壊れた扉を押し開けると、埃っぽい空気が肺に入った。
旧図書館──もう使われていない、誰も来ない場所。
遥はそのまま、音を立てないように奥へ進んだ。
誰に見られるわけでもないのに、気配を消すのが習慣になっている。
一番奥、窓際の小さな木の机。
そこに、身を縮めるように腰かける。
鞄を抱いて膝の上に乗せたまま、じっとしていた。
何もしていないのに、心臓の奥がじりじりと焼けるように熱い。
──日下部のことを、考えた。
昨日、あいつが言った「一緒に帰ろう」の言葉。
嬉しかったとか、そんな甘ったるい感情じゃない。
ただ、それが“許されるもの”だと思ってしまった自分が、いちばん気持ち悪かった。
(……調子に乗るなよ)
自分にそう呟いたとき、扉が軋んだ。
びく、と肩が跳ねる。
一瞬、呼吸が止まる。
足音。……誰かが、入ってくる。
「──おまえ、やっぱりここにいた」
その声に、遥の喉がきゅっと閉まった。
日下部だった。
制服のまま、少し乱れた髪。
無言で、隣の椅子を引いて座る。
机を挟んで、距離はある。
けれど、この狭い空間では、体温の差がすぐにわかる。
「……教室、やばかったよな」
言葉が落ちた。
遥は、頷きもしない。ただ俯いたまま、唇を噛んだ。
「……無理してんの、わかる。でも、俺はさ──おまえがそこにいるだけで、ちょっと安心してるんだよ」
それは慰めじゃない。
ただ、不器用な本音。
遥の耳に、その言葉が届いて、でも、何も返せない。
「……べつに、頼ってくれとか言ってない。俺も何ができるか、わかんねーし」
日下部は、鞄の中をまさぐって、小さな袋を机に置いた。
チョコパンと、小さなパックのミルク。
「……さっき、購買で最後だったやつ」
「……」
遥は、見なかった。
パンにも、日下部にも、視線を向けない。
でも、袋のカサッという音と、ミルクの小さな冷気だけが、やたらと鮮明に伝わってきた。
「いらなかったら捨てていい。俺も甘いやつあんまり得意じゃねーし」
それだけ言うと、日下部は鞄を持ち、立ち上がった。
「……じゃ、また。明日」
その背が遠ざかる。
扉が軋み、静かに閉じる。
旧図書館の空気が、また沈黙に包まれた。
遥は、しばらく動かなかった。
けれど数分後──そっと手を伸ばして、袋に触れた。
あたたかさはもう消えていたけれど、チョコパンの包みは、まだしっとりとしていた。
(……最低)
唇をかすかに歪めて、そう呟いた。
でも、袋はそのまま、ゆっくりと鞄の中にしまわれた。
まるで、それがなかったことになるように。
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