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掃除が終わる頃には、教室に残っているのは数人だけだった。

──残っている、というより「残された」ようなものだった。


窓際に鞄を置いたまま、遥は前の黒板の前に立たされていた。


「ねぇ、そろそろ良くない? こいつ、泣かないし」


「いや、だからおもしろいんだろ。無言で耐えてるの、めちゃくちゃ腹立つんだよな」


「もっと殴ってみる? 感情出すかもよ?」


笑い混じりの声が、数人の男子から飛ぶ。


女子たちは、距離を取りながらも、壁際でスマホをいじるふりをして、何も言わない。

いや──“何も言わないことで加担する”ことに、すっかり慣れてしまっている顔だった。


誰かの手が、遥の肩を雑に押す。

バランスを崩して、教卓の縁に身体をぶつける。


「なに黙ってんの、ねぇ。謝れば? 俺らになんかしたんじゃなかったっけ」


「……」


遥は、唇をかすかに噛んだ。

けれど、何も言わない。反応しない。逃げない。


──それが、また火に油を注ぐ。


「ねえ、“あいつのせい”だって言ったら、やめてやってもいいよ」


「あー、それいいじゃん。日下部が来てから、態度変わったしなぁ?」


「日下部のせいで調子乗ってるって、認めればいいんだよ。“アイツが助けてくれるって思った”ってさ」


遥の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。


それを逃さなかった。


「おーい、効いてる効いてる」


「じゃ、証拠つくっとく?」


足音が近づいた次の瞬間──


鈍い音とともに、腹に拳がめり込んだ。


空気が肺から押し出される。


喉が詰まり、声にならない吐息だけが漏れた。


「なにそれ。さすがに、やりすぎ?」


「いや、こいつ、自分じゃ反応しないからさ。外から、ちゃんと“刺激”あげないと」


誰かが笑い、誰かがスマホを構える。


遥は、前かがみになったまま、うずくまりそうになるのを、意地で耐えた。


(……日下部)


名前が、心の底で浮かびかけて、すぐに自分で打ち消した。


頼っちゃいけない。

期待しちゃいけない。

──そんなこと、何度も思ったのに。


「おーい、こいつまた泣かないぞ。やっぱメスいぬは耐久あるな」


「じゃ、服めくってみる?」


「ほら、鳴けよ、ねぇ」


そのときだった。


教室の扉が、ガンッと勢いよく開いた。


「──やめろって言ってんだろ」


全員の動きが止まった。


日下部が、そこに立っていた。


息を切らし、制服の襟を乱したまま。


目は、怒りというより……焦りの色をしていた。


「おまえら、何やってんだよ。ふざけんな」


無言でスマホをしまう者、目を逸らす者。


「おい遥、立てるか?」


その言葉に、遥はゆっくりと顔を上げた。


視線が合った瞬間──


……張りつめていた何かが、ひとつだけ、静かに崩れた。


遥は、小さく頷いた。


けれど、体は言うことをきかなかった。


その場にしゃがみ込みそうになった遥の腕を、日下部が、無言で支えた。


「もういい。帰ろう」


誰に向けた言葉でもなかった。


それでも、クラス全体が、息を呑んでいた。


──そんなに強い声じゃないのに。


でも、確かだった。


遥は、ただ支えられたまま、その腕の温度に、何も言えなくなっていた。


ふと、後ろからひとつの声。


「……へえ。やるじゃん、日下部」


蓮司だった。


いつのまにか、扉のそばに立っていた。


飄々とした笑み。

けれど、その目の奥は──冷たい。


「正義の味方、気取りか? おまえにしては、ずいぶん真っ直ぐな顔してるじゃん」


「黙れよ」


日下部が低く返す。


その声に、蓮司は肩をすくめる。


「……まあ、見ててやるよ。“おまえが壊さない”って、信じてるうちはね」


そして、背を向けた。


日下部は何も言わず、遥の腕を抱くように引き寄せた。


もう、誰も言葉を発しなかった。


教室の空気は、初めて“敗北”の匂いを含んでいた。


──けれどそれは、静かな嵐の前触れだった。


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