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王宮の風が、少し冷たくなっていた。
空は晴れているのに、風の匂いだけが、なぜか秋のように乾いていて――
オリビアのいない部屋のカーテンが、静かに揺れていた。
「……どこへ行ったんだ」
アルベール王子は、手紙を握りしめたまま、部屋に立ち尽くしていた。
それは、机の上に置かれていた。白い封筒。丁寧な筆跡。
中には、オリビアからの短い手紙。
「私は、あなたの隣に立つ資格があるのか、もう一度考えたいのです」
「あなたの名を“好き”と呼べる自分になれるように、少しだけ時間をください」
優しすぎるほどに、彼女らしい文章だった。
けれど――
「……なぜ、勝手に決めるんだ……っ」
王子の低く押し殺した声が、部屋に響いた。
(“好き”と、あれほど言ってくれたじゃないか……)
彼女が言った“好き”を、彼は確かに信じていた。
その瞳も、笑顔も、指先も――あの日から、すべてが宝物だったのに。
(……俺が、まだ言い足りなかったのか?
“資格なんて関係ない”って、“お前のことが全部必要だ”って……言葉が足りなかったから、離れていったのか……?)
王子はそのまま、立ったまま拳を強く握りしめた。
「……連れ戻す。どこにいても」
***
一方そのころ、オリビアは王都の外れにある離宮にいた。
元々、オルスカ家がかつて所有していた小さな別邸で、今は使用人もいない静かな場所だった。
「……ようやく、頭を冷やせそう」
鏡の前で、自分の顔を見つめる。
そこには、確かに“王子の婚約者”としての華やかさがまだ残っていた。
けれど、その目は――不安に揺れていた。
(あのまま、王子様の傍にいてよかったの?)
彼の言葉が本気なのは、分かっている。
好きでいてくれるのも、信じている。
でも――
「……私は、彼にとっての“正解”じゃないのかもしれない」
思い出すのは、セリーヌの冷たい言葉。
『“愛されているから”という理由だけで、耐えられると思って?』
あのときは反論できなかった。
(もし、王妃としての試練や、国の重責に向き合ったとき――
私の“好き”だけで、乗り越えていける?)
言葉に出すのも苦しいほど、不安は大きくなっていた。
そして同時に、こうも思っていた。
(……でも、もし私がちゃんと覚悟を持てたら――
私はもう一度、あの人の手を取ってもいいって、そう思えるかもしれない)
だからこそ、離れたのだ。
逃げるためじゃなく、“戻るため”に。
***
――それから二日後。
離宮の庭に、馬車の音が響いた。
「……っ」
オリビアは、胸が跳ねるのを感じながら立ち上がった。
この場所を知っている者は少ない。
だからこそ――きっと。
「オリビア!」
扉が開き、風と共に、王子の声が飛び込んできた。
「……アルベール……!」
息を切らした彼は、髪を乱したまま真っ直ぐに駆け寄ってきて――
そして次の瞬間、何も言わずに彼女を強く、強く抱きしめた。
「……どこに行ったって、見つける。勝手にいなくなるな」
「……でも、私――」
「お前が俺の隣に立つ資格があるかどうかなんて、関係ない」
「……!」
「俺は、オリビアという人間を、選んだんだ。
お前が笑う日も、泣く日も、全部そばにいたいと思った。
それを今さら“考えさせてくれ”なんて言うな。……俺に相談してから決めろ」
オリビアの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「……だって、怖かったの。
“好き”だって言ってくれても、その隣にいる覚悟が、私には足りなかったかもしれなくて――」
「なら今言え。……もう怖くないか?」
「……怖いよ」
「じゃあ、その怖さも一緒に抱えていこう。俺が全部、支えるから」
そう言って、王子は彼女の手をぎゅっと握った。
「……オリビア、お前はもう“ただの婚約者”じゃない。
俺の“未来”だ」
「……っ」
「帰ろう。俺の隣へ。もう一度、君自身の足で――」
涙を拭ったオリビアは、少しだけ迷ったあと、深く頷いた。
「……はい。私、帰ります。あなたの隣へ」
手と手が、再び繋がった。
そのぬくもりは、初めて触れたときよりもずっと、強くて――
未来へと続いていると信じられるものだった。
***
そしてその夜、オリビアの離宮を遠く離れた王都の裏路地では――
「……あらら、連れ戻しちゃったんですね」
セリーヌ・ミルディナは、ワインをひと口含みながら、静かに呟いた。
「でも、簡単に引き裂けると思った?私、そんな甘い子じゃないのよ?」
手元には、王妃陛下の“新しい命令書”があった。
内容は――
「王子の婚約を一時保留にし、“国益”を優先するための再審議を求める」
「さて――次は、“本当の決断”をさせていただきますわよ。アルベール様、オリビア様」
月の光の下で、セリーヌの目が静かに笑った。