小さな僕を抱え走り出した
ご主人様の後を追いかける。
雨は一層強くなり
雨水を吸い体が重い。
ご主人様は僕が濡れないように
着ていた服をおもむろに脱ぎだし
僕を包みこんで温めてくれた。
自分のことより
僕のことを優先してくれるのは
昔から変わっていないようだ。
この状況でも自然と笑みが溢れた。
昔から変わっていないと言えば
ご主人様は後先考えず行動する。
僕を拾ったときもその後のことは
考えていなかったみたいだった。
とても心配だ。
今だって気温が高いとは言え
僕に服を貸してくれているせいで薄着で
濡れてた僕を抱えていれば
風邪を引いてしまうかもしれない。
それほど僕のことを
大切に愛してくれていたのだ。
だからこそ僕はご主人様の元に
帰らなきゃいけない。
たくさん愛してくれた
お返しをするためにも
育ててくれた恩返しをするためにも。
一直線の長く細い道を走り
2つの信号機を越え
3つ目の街灯を右に曲がる。
今の時刻は4時を過ぎたところだが
雨のせいで余計に暗く感じるし
時の流れも遅く感じる。
それでもご主人様は
1度も止まることなく走り続ける。
それから数分後
ご主人様は大きな一軒家の前で
ようやく立ち止まった。
そして自分のカバンから鍵を取り出し
ドアを開け暗い部屋に向かって
ただいまと言い暗闇の奥へ消えていった。
僕もご主人様の後を追って
お邪魔しますと小さく鳴いてから
暗闇の奥へ向かう。
ここは小さな僕が帰る場所だ。
僕が帰る場所はここではない。
ただいまはご主人様の元に帰れたときに
取っておかなければいけない。
突然ご主人様が向かった方から
ドカーンと大きな音が聞こえた。
急いでその部屋に向かうと
信じられないほど散らかった部屋に
大の字で倒れてるご主人様が居た。
僕が見ていなかった数十秒で
何が起こったのだろうか。
ご主人様は綺麗好きで
こまめに掃除をしていたため
元から散らかっていたとは考えづらい。
ということはこの数十秒で
強盗に襲われたと勘違いする程
物を散乱さたということだろうか。
おまけに大の字で倒れ唸っている。
僕ははじめて見るご主人様の姿に
驚きが隠せなかった。
その後ご主人様はゆっくり立ち上がり
僕を抱えてお風呂場へと歩いていった。
ご主人様は意外にも
抜けているドジな
1面を隠していたようだ。
ご主人様はいつも優しく
自分のことより僕のことを優先して
後先考えず行動する。
そんなご主人様のことが
僕はずっとずっと心配だった。
今頃ご主人様は
1人やれているだろうか。
1人で泣いたりしていないだろうか。
僕はご主人様の
キラキラと輝いた笑顔が大好きだった。
ご主人様の笑顔は周りにいる人まで
幸せにしてしまうそんな笑顔だった。
もう1度見たい。見せて欲しい。
ご主人様の少し頼りないとこを
知ってしまったから今度は僕が
ご主人様を笑わせてあげなくちゃいけない。
思い出すだけで涙が出てきそうになる。
弱虫な僕は置いてきたから
もう泣かないって決めたのに。
今の僕のままだと
誰にも見つけてもらえない。
今の僕は透明でこの世界から
遮断されている状態だ。
僕がご主人様の居る世界に戻るためには
消えてしまった記憶を
思い出さなければいけない。
その記憶は僕の名前だ。
ご主人様が僕だけのために
付けてくれた大切な名前が
戻るために必要な鍵なのだ。
それなのに僕は名前が思い出せない。
僕とご主人様を繋ぐ糸は
また繋がっている。
どんなに細くなっても
繋がっている。
この糸が切れてしまう前に帰らなければ
2度とご主人様にただいまは言えないし
おかえりは言ってもらえない。
まだ僕は名前を思い出せていないだけで
記憶は消えていないはずだ。
タイムリミットは
僕の記憶が完全に消えてしまうまでだ。
僕自身が誰なのか分からなくなって
ご主人様のことを
忘れてしまうまでその瞬間まで。
この時間こそが
神様が僕に与えてくれた
最後の希望の光なのだ。
1分1秒無駄にできる時間は無い。
僕はこれから
小さな僕とご主人様と過ごし
記憶をさかのぼり名前を思い出す。
だからご主人様に会えるまでは泣かない。
最後まで
希望を捨ててはいけない。
カチカチと秒針が動く音が響く。
この間もご主人様は
僕をお風呂に入れてくれている。
きっとそろそろ
ピカピカの僕とボロボロのご主人様が
戻ってくる頃だろう。
僕はお風呂にはついていかない。
フカフカのソファーに置かれた
クッションの上で
毛づくろいをしながらご主人様達を待つ。
またカチカチと秒針の音が響く。
すると遠くの方からドタドタと
足音が近づいてくるのが分かる。
閉まりきっていなかったドアは
音を立て勢いよく開く。
そこにはビチョビチョに濡れた僕と
満身創痍のご主人様が立っていた。
コメント
3件
これは…瀕死状態で今話してるのは魂ってこと…?