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#高校生
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第1話 「帰還」
春の風が、水路をなぞるように静かに流れていた。
福岡・柳川――水郷の町にある柳城高校。
かつて甲子園を沸かせたその野球部は、いまや県大会ベスト8止まりの“古豪”に過ぎなかった。
グラウンドには雑草が目立ち、ベンチ脇には空き缶やペットボトルが転がっている。
ノックの声も、どこか覇気がない。
その光景を、ひとりの男が見つめていた。
福間トオル、42歳。
柳城高校OB、元捕手。
社会人野球で数々の優勝を重ねた名将が、今、母校に戻ってきた。
しばらく無言で立ち尽くしたあと、小さくつぶやく。
「……まずは、ここからやな」
その声に気づいた部員たちが、ざわつく。
「誰だ、あの人……」
やがて一人の教師が駆け寄ってきた。
「福間先生、こちらへ。理事長がお待ちです」
応接室。
重厚な机の向こうに座るのは、理事長・立花修造。
「よく帰ってきてくれた、福間君」
落ち着いた声だった。
「強くしてくれ、とは言わん」
一拍置いて、視線をまっすぐ向ける。
「柳城を、立て直してくれ」
福間は静かにうなずいた。
その日の放課後。
グラウンドに全員が集められた。
「今日から、監督を務める福間トオルだ」
短い自己紹介。
だがその一言に、空気が引き締まる。
福間は地面に落ちている空き缶を一つ拾い上げた。
「これ、誰が捨てた?」
誰も答えない。
「野球が強い弱いの前に、人としてどうなんや」
静かな声だったが、重かった。
「グラウンド、道具、仲間。
大事にできんやつに、勝つ資格はない」
その言葉に、下を向く部員たち。
ただ一人、前を見ている少年がいた。
小早川啓介。
この日入学したばかりの新1年生、捕手。
福間の言葉を、まっすぐ受け止めていた。
(この人……違う)
直感だった。
翌日から、練習は一変した。
整備から始まり、整備で終わる。
道具は一列に並べられ、声出しは徹底。
不満の声も出た。
「こんなんで強くなれるのかよ……」
だが福間は変えない。
「基礎を舐めるな。全部、勝ちにつながる」
夕方。
練習を終えた啓介は、ふらりと校門を出た。
腹が減っていた。
目に入ったのは、小さなお好み焼き屋。
暖簾が揺れている。
「いらっしゃい」
中に入ると、鉄板の前に立つおっちゃんと、奥から顔を出すおばちゃん。
「学生か。野球部やろ?」
啓介は少し驚いてうなずいた。
「顔見りゃ分かるわ。ええ顔しとる」
鉄板の上でジュウジュウと音が鳴る。
しばらくして、熱々のお好み焼きが目の前に置かれた。
「食え。腹減っとるやろ」
ひと口食べた瞬間、思わず声が出た。
「……うまいです」
おっちゃんはニヤッと笑う。
「そりゃそうや。昔から野球部の胃袋は、ここが支えとるけん」
啓介は顔を上げた。
「昔って……」
「2005年やな。最後に甲子園行ったの」
その言葉に、店の空気が少しだけ変わった。
「そっから先は、ずっと“あと一歩”や」
おっちゃんは鉄板を見ながら続ける。
「でもな」
トン、とヘラを置いた。
「今年は、ちょっと違う匂いがする」
啓介は黙って聞いていた。
「監督、戻ってきたやろ」
――福間トオル。
「本気で変える気や。あの人は」
おばちゃんが横から口を挟む。
「ほら、冷めるよ。早よ食べんね」
啓介は再びお好み焼きを口に運ぶ。
胸の奥に、何かが灯る。
夜。
グラウンドに一人残り、ミットを構える。
誰もいない空間に、ボールを投げ返す音だけが響く。
(このチーム、変わる)
いや――
(変えるんだ)
ミットを強く叩いた。
その音は、水郷の静かな夜に、確かに響いていた。
『水郷の夏 再び』 第1話 終わり