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朝の電車はいつもより少しだけ空いていた。
環奈はつり革を握りながら、昨日のやりとりをぼんやりと思い返していた。
(……松村さん、優しかったな。)
「無理しすぎないでくださいね」
その一言が、ずっと耳に残っている。
今までは、失敗しても、誰にも気づかれずに流れていく日々だった。
でも、松村は違った。
ただのカフェの店員――そう思っていたのに、どこか気にかけてくれる存在になっていた。
出社してオフィスに入ると、まだ少しぎこちない挨拶が交わされる。
それでも、一日目よりはほんの少し気持ちが楽だった。
***
お昼休み。
またあのカフェに行くと決めていた。
昨日と同じように、店内は落ち着いた空気に包まれていた。
コーヒーの香りが、自然と肩の力を抜いてくれる。
カウンターの向こうに、松村がいた。
(……なんだろう、この安心感。)
「白崎さん、今日も来てくれたんですね。」
「はい。なんだか……ここ、落ち着くので。」
松村は笑って、注文を受け取った。
「よかった。じゃあ、今日も少し甘めのブレンドで。」
環奈が席につくと、近くにいた年配の女性スタッフが松村に話しかける声が聞こえた。
「松村くん、あの機材のトラブル、すぐ直してくれたんだって?さすがだねえ。」
「いえ、たまたま原因が分かっただけです。機械、結構弱ってたので、ちゃんと報告しときます。」
さらっと答える松村の声は、落ち着いていて、それでいて芯があった。
(……仕事、できる人なんだ。)
驚いた。
あの日、静かにコーヒーをくれた優しそうな人。
でも今目の前にいるのは、周囲の信頼をしっかりと集めている“プロ”だった。
コーヒーが運ばれてきたとき、環奈は思わず言葉をかけた。
「松村さんって……すごいですね。機材のことまで分かるなんて。」
「ん?ああ、少しだけメンテナンスの研修も受けたんです。裏方、意外と好きなんですよ。」
そう言って、彼はカップをそっとテーブルに置いた。
「目立たないけど、ちゃんと支える仕事、っていうんですかね。そういうのが、性に合ってるのかもしれません。」
その言葉に、環奈の胸がじんわりとあたたかくなった。
(私とは、全然違うな……)
自分は、何をやっても“要領が悪い”。
それなのに、彼は黙々と、淡々と、でも確実に人を支えていた。
「……かっこいいですね、そういうの。」
思わず口から出た言葉に、自分で驚いた。
松村は少し驚いた顔をして、そして笑った。
「ありがとうございます。でも……かっこいいって言われたの、久しぶりかも。」
環奈もつられて、小さく笑った。
それは、まだ恋ではない。
けれど、確かに胸の奥に、何かが灯った瞬間だった。
***
その日の帰り道、環奈はいつもより歩く速度がゆっくりだった。
風が優しく吹き抜ける中、ふと思った。
(……また、明日も話せたらいいな。)
ただそれだけの願いが、胸の中で小さく光っていた。
環奈はその夜、いつになく早くお風呂を済ませ、ノートパソコンを閉じたまま、ベッドに横になっていた。
天井を見つめながら、ふと思う。
(“裏方が性に合ってる”って……なんだか、かっこよかったな。)
学生時代の自分は、常に「表」で評価される場所にいた。
テスト、順位、通知表、受験――全部「数字」で結果が出る世界。
けれど、社会に出てからは、正解なんてどこにもない。
「要領が悪い」と言われてきた自分にとって、それはときに、すごく苦しかった。
(……松村さんみたいになれたら、少しは変われるのかな。)
そんなことを考えているうちに、スマートフォンに通知が届いた。
同期のグループチャットだった。
軽い雑談の中に、こんなひと言が流れてくる。
「白崎さんって、真面目そうだよね。でもちょっと緊張しすぎかも?笑」
(ああ……見られてるんだ、ちゃんと。)
胸の奥が少しだけちくりと痛む。
次の日の朝。
環奈はいつもより10分早く職場に着いた。
誰もいないフロアに、ひんやりとした空気が漂っている。
静かにデスクに座り、資料をめくる。
昨日、説明されたことをちゃんと理解しておきたかった。
(私も……少しずつでいいから、仕事ができる人になりたい。)
そんな気持ちで過ごした午前中、ちょっとしたトラブルが起きた。
会議室での資料配布を任された環奈だったが、印刷の設定ミスでページがバラバラになっていたのだ。
「え、これ順番バラバラだよ?」
「ちょっと、白崎さん、確認した?」
周囲の小さな視線が突き刺さる。
環奈は思わず言葉を詰まらせた。
「あ……すみません。すぐ、直します!」
パニックになりそうな気持ちを抑えて、資料をかき集めていると――
「手伝いますよ。」
声がした。
振り向くと、松村が資料を拾っていた。
彼は落ち着いた手つきでページを揃えながら、言った。
「これ、プリンターの設定、デフォルト変わってたみたいですね。たまにあるんですよ。」
まるで、自分のミスではないように扱ってくれるその言い方に、環奈の目頭が少し熱くなった。
「あ……ありがとうございます。ほんとに……ごめんなさい。」
「大丈夫です。誰でも最初はそうですから。」
その言葉が、環奈の中で何度も響いた。
「誰でも最初はそうですから。」
怒られるでもなく、慰められるでもなく。
ただそこにあるような、やさしい言葉だった。
***
昼休み、カフェの奥の席でこっそりとため息をついた環奈に、松村がそっとカップを差し出した。
「今日は深めにしてみました。」
「……どうしてですか?」
「落ち込んだ顔してたから。」
環奈は目を見開いた。
松村は、笑わなかった。
からかいもしなかった。
ただ、静かにそう言っただけだった。
コーヒーの香りが、心の奥にすっとしみこんでいく。
「松村さんって……よく人のこと、見てますよね。」
「そうですか?」
「はい……なんか、安心するんです。」
環奈はそう言ってから、少し照れて目をそらした。
松村は、それでも優しく微笑んだ。
「それなら、よかったです。」
***
その日、家に帰った環奈は、カバンから紙カップのフタを外し、ほのかに残る香りを吸い込んだ。
仕事はまだまだ慣れない。
ミスだって、きっとこれからもたくさんある。
だけど――
(明日も、頑張ろう。)
理由は単純だった。
誰かが、ちゃんと見てくれている。
それだけで、また明日も立ち上がれる気がした。
つづく