テラーノベル
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午前の業務を終えたあと、部内の先輩社員・藤崎さんがふと声をかけてくれた。
「白崎さん、カフェの松村くんと知り合いなの?」
「え?」
「ほら、こないだちょっと手伝ってもらってたでしょ。あの子、うちの社員より頼りになるって評判なんだよ。」
「……あ、そうなんですね。」
環奈は、ふっと笑った。
(やっぱり、誰にでも優しいんだな。)
ほんの少し、胸の奥がチクッとした。
昼休み。いつものようにカフェの席に座っていると、いつになく松村の姿が見当たらなかった。
(今日はシフト、違うのかな……?)
代わりに別のスタッフが接客をしてくれたけれど、どこか物足りなさを感じてしまう。
(……私、なに期待してたんだろ。)
軽く笑って、コーヒーを一口。
味はいつも通りなのに、少しだけ、違って感じた。
そんなときだった。
カフェの奥から松村が現れた。制服ではなく、私服姿。少し驚いた表情で、環奈の方を見た。
「白崎さん……あ、今日はお客さんだったんですね。」
「あっ……はい。松村さん、今日はお休み?」
「ええ、ちょっと私用で来てただけなんです。」
彼は隣の空席をちらっと見た後、
「少しだけ、いいですか?」と尋ねた。
環奈は驚きながらも、こくんと頷いた。
***
「実は、昔ここで社員として働く前……少しだけ、別の仕事をしてたんです。」
松村はそう言って、コーヒーを両手で包み込むように持ちながら話し始めた。
「大きな会社だったんですけど、正直、全然うまくいかなくて。会議も営業も、何しても怒られてばかりで……辞めるとき、自分って社会不適合者かもって、ちょっと思いました。」
環奈は黙って、彼の横顔を見つめた。
「それで、しばらく無職でふらふらしてて。でも、ここに偶然入ったとき、初めて“自分のペースで働いていい”って言われたんですよ。」
「……それで、今ここに?」
「はい。最初はバイトでしたけど、徐々に任されることが増えて、気づいたらここが“居場所”になってました。」
淡々と語る口調の裏に、いろんな感情が隠されているのがわかった。
(松村さんも……うまくいかない時期、あったんだ。)
それは、環奈にとって大きな衝撃だった。
完璧で、落ち着いていて、何でもそつなくこなせる人――
そう思っていた彼が、昔の自分と同じように、悩んでいた時期があるなんて。
「……すごいです。」
環奈は、ぽつりとこぼした。
「ちゃんと、自分で道を作ってきたんですね。」
松村は少しだけ驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「いや、たまたまですよ。運が良かっただけです。」
そう言いながらも、どこか照れているように見えた。
「でも、自分が苦しかったぶん……誰かがしんどそうにしてるのは、放っておけなくて。」
その言葉に、環奈は胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになった。
(それで、私にあんなにやさしかったんだ。)
「……松村さんのそういうところ、すごく、素敵だと思います。」
思わず出た言葉に、自分でも驚いた。
彼は少しだけ目を伏せて、照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。……救われます、そう言ってもらえると。」
その一瞬、視線が重なった。
時間が少しだけ止まったような、静かな空気が流れる。
コーヒーの香りと、やわらかな午後の日差し。
それだけしかないのに――
環奈の胸の奥には、静かに何かが芽生えていた。
その日の帰り道。
環奈はイヤホンを外し、耳に風の音を感じながら歩いていた。
(松村さんは、ただ優しいだけじゃない。)
(過去を抱えながら、それでも誰かを支えようとしてる……)
いつの間にか、彼を思い出す回数が増えていた。
「……会いたいな。」
その言葉は、声にならなかったけれど、確かに心の中に残った。
カフェを出て、駅に向かう途中、環奈は思い切って声をかけた。
「松村さん……その、さっきの話、もっと聞かせてもらえますか?」
松村は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。
「いいですよ。時間あるなら、少し歩きませんか?」
ふたりはゆっくりと歩き始めた。
「昔のことはあんまり話したくなかったんですけど……話すことで少し楽になるなら。」
環奈は頷いた。
「私も、仕事でうまくいかないことが多くて……だから、松村さんの話、聞きたかったんです。」
夕暮れの街並みを背景に、二人の影が伸びていく。
松村はゆっくりと話し始めた。
「前の会社は、大手で期待も大きかった。でも、自分はその期待に応えられなかった。毎日怒られて、自信を失っていったんです。」
「そんなとき、ある先輩が言ってくれたんです。『完璧じゃなくてもいい、自分のペースでやれ』って。」
「その言葉がなかったら、今の自分はなかったかもしれません。」
環奈はその話を聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとう、松村さん。話してくれて。」
松村は照れくさそうに笑った。
「僕も、白崎さんの話をもっと聞きたいです。」
「え?」
「いつか、君のことも教えてください。」
環奈の心臓がドキリと跳ねた。
それは小さな一歩だったけれど、二人にとっては大きな距離を縮めた瞬間だった。
つづく
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