草履に踏みしめられる砂利の音は、妙に鬱屈とした響きで鼓膜を揺らした。
肩で息をし、笠の下から流れ落ちる汗で濡れそぼった髭を、年老いた男は不快そうに袖で拭う。
体力の回復を期待して休憩すべきか、それとも一度休憩すれば足腰が立たなくなる予感に従い、とにかく道を急ぐべきか。悩ましい問題に呻き声を漏らしつつ、男はふらつく足を引きずるように前へと進め続けていた。
目的地は、山間を抜けた先にある小さな集落だ。街道でもない山道は、雑草が生い茂り、足元も悪い。
髪色さえ真っ白に抜け落ちた男は、背中に巨大な棚を風呂敷で負い、さらに腰には二振りの刀を差している。むしろこの年齢で、それだけの重量を支えていられることは奇跡としか言いようがない。
もうここはイチかバチか、とにかく休んでしまった方が得策かと脳裏によぎった時だった。
背後からゆっくりではあるが、ぞりぞりと砂利を砕きながら近寄ってくる気配があることに気付く。さらに、不平を漏らしているかのような牛の鳴き声までも耳にして、男は思わず、疲れも忘れて勢いよく振り向いた。
炭俵を載せた牛車(うしぐるま)と、車輪に注意を払いながら進んでくる二つの人影。
それが目的としている山村の住人たちだと気付いた男は、縋るように手を振った。
「おぉい、おぉい! 孫六! 平五郎!!」
その声に、二人が怪訝に首を傾ぐのが見えた。
しかし男がわずかに笠を上げて再び手を振ると、合点がいった様子ではしゃいだ様子を見せ、牛を急かして男の元へとやって来る。
「貸本屋のじっ様じゃねえか! 今年も来たかぁ!!」
「おうとも、来ねぇわけがあるか」
男は、年間を通して村々を回る貸本屋を営んでいた。よく見れば風呂敷で包みきれなかった棚の隙間から、いくつかの黄表紙や巻物が見えている。
それを興味深そうに覗き見る孫六と平五郎に、男は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すまねぇが、これもいいとこで会った縁だ。車にこの棚、載せてやっちゃあくれねぇか。わしゃもう足が辛くてな」
「うちの村までの道は険しいからなぁ、そりゃじっ様にゃツレぇだろう。棚だけなんて言わず、じっ様も車に乗ってくんな」
「わしまでいいのかい」
「おうよ。ただし貸本が汚れねぇように、しっかり守っとくんだぜ」
言うが早いか、二人はさっさと男の背から棚を下ろさせて車に載せ、ついでとばかりにその隣に男自身をも座らせる。
ガタギシと音を立てて揺れる車の乗り心地は決していいものではなかったが、体を休めているだけで目的地に到着するという僥倖に男は、そもそも細い目をさらに細めて安堵の息を漏らす。
それを疲れからくる深い呼吸と受け取ったのか、平五郎と呼ばれた男は後方から車に手を添えつつ、口を開いた。
「じっ様、そろそろ隠居したほうがいいんじゃねぇのかい。その老体にこの荷物だ。その内押し潰されちまってもおかしかねぇや」
「馬鹿ァ言うもんじゃねぇ。わしがいねぇとおめぇさん方、みんな物知らずになっちまわぁ」
「まぁ、生業(なりわい)をやめろっつーのは乱暴な話だったか。ところでじっ様、その刀なんだがね」
「これか」
「そいつは、どんなモンが斬れるんだい?」
興味と言うにはどこかギラついた光を持つ目に、男は大声で笑い飛ばした。
「どんなもなにも、こいつは鈍刀(なまくらがたな)だ。豆腐だって斬れたもんじゃねぇさ。それにおめぇさん方も知ってんだろう、忘れたかい? わしの腕じゃ、こんなもんは振るえねぇよ」
袖に入れたままにしていた右腕を取り出し、陽光に晒す。それは人の腕の形を模しているものの、到底動かせるとも思えない木製の義手だった。
古びて黒ずんだそれを目にし、二人は思い出した様子で、バツが悪そうに目を泳がせる。
「す、すまねぇじっ様。俺らは別に、アンタの腕を笑いものにするつもりじゃ……」
「んなこたぁ分かってるさ、気にするようなことじゃねぇよ。ただこんな腕でも、こいつを隠して刀を提げとくだけで山賊よけにはなるもんでな。それだけのことさ」
「そうかい、なるほどなぁ」
男の答えに、二人は笑いながらも、どこか落胆したようにも見えた。期待していた答えが得られなかった残念さを取り繕うように、無理に笑ってみせる表情に痛々しさを覚える。
しばしの沈黙とともに牛車は進んでいく。二人の態度から刀を奪って人でも殺すつもりなのかと邪推したが、その切羽詰まった様子から見て、そうではなかったらしいことに気付いた。
そもそも人を殺すだけなら、稲の収穫に使う鎌でも、薪を作るための斧でも、村にはある。
ではなぜ刀の切れ味になど興味を持ったのかと眉根を寄せたとき、男はふと隣に積まれた物に目をやった。
左右に揺れるたびに体にぶつかる炭俵に首を傾ぎ、男は怪訝な唸りを漏らす。
「……そういやぁ気になったんだが、村で誰か祝言(しゅうげん)でも挙げるのか。この時期、祭があった覚えもねぇんだが」
「あ? なに言ってんだじっ様、だぁれも祝言なんざ挙げねぇよ。祭はいつも稲の収穫が終わった頃で、まだまだ先だ」
「そうだよなぁ。それならなおのこと分からねぇ」
「なんだよじっ様、なにが分からねぇってんだ」
「炭の量だ」
言葉に、二人が息を呑むのが分かった。
「おめぇさん方の村は小せぇ。こんなに炭を買っても、到底使い切れずに湿気させちまうだろう。裕福な村でもねぇし、無意味に買い込むとも思えねぇ。祝言でも祭でもねぇなら、なにをこんなに使うことがあるってんだ」
疑問に対する返答はなく、しばし牛の蹄(ひづめ)と車輪が砂利を砕く音だけが山道に響く。二人の額は青ざめ、じっとりとした脂汗が額を濡らしていた。
やがて孫六が深く息を吐き、眉間に深い渓谷を刻んだまま口を開く。
「頼むよじっ様、逃げねぇでくれ。しばらく村にいてくれ。鈍刀でも竹光でも、持ってるだけで違うってんなら、頼む」
「おいおいどうした急に、逃げるってなぁなんのことだ。わしが気ままに村を回ってるこたぁ、おめぇさん方もよっく知ってんだろう。いてくれと言われりゃ、そりゃいくらかはいてやるさ」
「いや、信用ならねぇ。いざとなりゃじっ様、この棚だって置いてずらかるかもしんねぇ」
「このわしが仕事道具を置いて行くたぁ馬鹿を言いやがる。例えそうだとしても、じきに路銀が尽きて野垂れ死にしちまうよ。それよりちゃんと話しやがれ。なぁ、なにをそんなに怯えてんだい」
まるで説教をする口調で詰め寄る男に、二人はどう話すべきかを窺うように、幾度か視線を交わす。その間も車は止まることなく村へと進み続け、やがて村の入り口であることを示す道祖神が姿を見せた。
「言わずに済ませようって腹かい。わしゃ確かに片腕の老いぼれだがな、理由も聞かずに殺されてやるようなタマじゃあねぇぞ」
「こ、殺したりしねぇ! 俺らは殺したりしねぇよ!!」
「そうかい、じゃあ誰がわしを殺すんだ」
老人とも思えぬ眼光に怯んだ二人の目線が、不意に村の背後にそびえる山に流れる。その山を視界に入れた直後、男は義手であるはずの腕がずぐりと脈打つのを感じた。
コメント
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応援してます!!頑張ってください(⋆ᵕᴗᵕ⋆).+*ペコ
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