テラーノベル
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『春に、貴方の名前だけが残らない』
春になると、私は何かを失くす。
それが始まったのは、たぶん小学生の頃だった。
最初は些細なものだった。
昨日見た夢の内容とか、
好きだった歌のメロディとか。
でも年々、それは大きくなっていった。
中学生の春には、仲の良かった友達の声を思い出せなくなった。
去年の春には、ずっと大切にしていた約束を、理由ごと忘れた。
そして今年。
私は、もう分かっていた。
__次は「人」だ。
庭に花が咲いたのは、そんな予感を抱いていた頃だった。毎年同じ場所に咲く、淡い色の花。
切り取って花瓶に入れると、すぐに色を失ってしまう、不思議な花。
誰かに渡そうとすると、必ず枯れる。
それも、知っていた。
「今年も咲いたんだ」
初めてあなたが庭に立っていた日のことを、私はよく覚えている。
フェンス越しに、少し遠慮がちに覗き込んでいた。
「きれいだね、この花」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥が、ひどく嫌な音を立てた。
__ああ、今年はこの人だ。
あなたは、毎日来るようになった。
放課後、少しだけ。
花の話をしたり、学校の愚痴をこぼしたり。
私が水をやる間、黙って隣に立っていたり。
名前を聞いたはずなのに、
その日の夜、ノートに書いた文字は、
翌朝には滲んで読めなくなっていた。
私は、怖くなって、でも笑った。
「ねえ、春ってさ」
「うん?」
「すぐ終わっちゃうよね」
あなたは少し考えてから、笑った。
「だから好きなんじゃない?」
その言葉が、胸に残った。
私は、
あなたに近づきすぎないようにしていた。
触れたら、失くしてしまいそうで。
でも、距離を取るほど、
あなたの声が頭に焼き付いていった。
それが、嬉しくて、苦しかった。
桜が散り始めた頃、 私は決めた。
花を渡そう、と。
枯れると分かっていても、
この春が終わる前に。
「これ」
切り取った花を差し出すと、
あなたは目を丸くした。
「いいの?」
頷いた瞬間、
花は、静かに色を失った。
それでも、あなたは捨てなかった。
枯れた花を、壊れ物みたいに扱った。
「大事にするよ」
その言葉を聞いた途端、
あなたの名前が、音を立てて崩れた。
喉まで出かかったのに、 もう呼べなかった。
「来年の春も、会える?」
私は答えなかった。
答えられなかった。
春が終わった。
私は、あなたを思い出せなくなった。
声も、顔も、名前も。
ただ、庭に咲く花を見ると、
理由もなく胸が締めつけられる。
次の春。
同じ花が、同じ場所に咲いた。
「……ここ、前にも来たことある気がする」
知らない人が、庭の前に立っていた。
私は微笑んだ。
「その花、きれいですよね」
その人は、少し泣きそうな顔で頷いた。
手の中には、
色の失われた、あの花があった。
私は、その理由を、もう知らない。
それでも春になるたび、
名前のない痛みだけが、胸に残る。
コメント
9件
雰囲気ほんとおしゃれだし 何より書き方上達してる凄い
…話の書き方、うますぎでは…ッ?!?!