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まさに焚書官たちの屯している方から女性の悲鳴は聞こえたのだった。ユカリはグリュエーの控えめな助けを得つつ、砂埃を立てて道を一息に飛び越えると、黒衣の僧たちを押しのけて騒動の中心へと分け入る。
一人は剣を抜き放った焚書官だ。素朴な意匠の鉄仮面を身につけた、いわゆる平の焚書官だ。「無礼な」とか、「異教徒め」などと怒鳴っている。
もう一人は年若い女だが、元は純白だったろう薄汚れた長衣を着て、跪いている。縮こまって震えており、その場にいる誰も聞いたことのない祈りの言葉を一心に唱えていた。
そこへユカリが飛び込んだのだが、同時に反対側から別の人物が同じように飛び込んできた。全身甲冑の鎧武者だ。鏡面のように磨き上げられ、秋の薄ぼんやりした陽光を反射する銀の鎧は、焚書官の前に立ちはだかり、傷一つない剣を抜き放つ。
「やあやあ。何だって天下の往来で無手の娘っ子相手に剣を抜くことがあるんだい?」と銀の鎧は焚書官たちに言い放つ。
誰だか知らないが、いくら何でもその決断は早すぎるだろう。まだ事情も知らない内から殺し合うつもりだろうか。
ユカリは冷や汗をかく。ユカリはその銀の鎧が事を起こす前に焚書官たちに尋ねる。
「御坊様よ。救いの乙女が御降臨あそばされるまで人の野原を清めようとなさる焚書官様よ。いったい何ごとだというのですか? 一人の哀れな娘が何をしたというのですか? その剣を血で汚す前に彼女の罪を私たちに説いても罰は当たりますまい」
ユカリの必死に嘆願するような声の響きは、焚書官たちの怒鳴る声にかき消される。
「いったい何だ、貴様ら」「貴様の方こそ何者だ、獣追いの娘よ」「それはお前の獲物ではないぞ。何の関係があるというのか」「森に戻って血の汚れを雪ぐがいい」
おおよそ二十人の焚書官の中に、どうやら首席焚書官はいないようだった。誰もが素朴な鉄仮面をかぶっており、あの頭の燃える山羊のような仮面はどこにもない。
ベルニージュは少し離れたところで焚書官たちに冷たい眼差しを向けて、唇の上に怖ろしい呪文を編んでいるが、目に見えて何かが起こっているわけではない。
「怒鳴り声を聞いたのさ。ろくな奴は怒鳴りはしない。それは誰かに強いる奴の常套手段さ」と銀の鎧が言って、切っ先を焚書官たちに向ける。兜の面甲で顔は見えず、くぐもった声は男とも女ともとれる不思議な声色だ。「誤解があるというのなら話してみれば良い。侮辱や罵倒が聖職者様方の助けになるとは思えないがね。それは不信者の言葉だろう」
「何を!」唯一抜刀している焚書官が怒気を発する。「浮浪者風情が我らに説法するつもりか」
漲る緊張感の中で最初に行動してしまったのはユカリだった。場の罵倒の応酬に紛れ、小声でグリュエーに命じると、集団全体に大風が吹きつける。
皆が風に抗うように手をかざし、目を細め、耐えていると、一人だけ、抜刀している焚書官だけが転んだ。すかさず立ち上がるがまた転ぶ。立ち上がろうとしてさらに転ぶ。転ぶまでもなく転がる。転がり続ける。
そこまでやれとは言ってない。
皆が呆気に取られる。ベルニージュに冷たい目で見られてユカリは縮こまる。私じゃない、とも言いづらい。
焚書官たちの方は、跪いて祈りの言葉を唱える娘が罪を重ねたと思い込んだようだった。彼らは剣の柄に手をかけて、銀の鎧と向かい合って罵る。
「娘! 貴様の魔術か!?」と焚書官の一人が怒鳴る。
「大風が吹いただけだろう。あの男は足腰を鍛えた方が良いな」と銀の鎧は冗談めかして言う。
さらに混迷を極めてしまった。少し気を逸らす程度のつもりだったのに。
グリュエーがユカリに得意げに語り掛ける。「ぴったり百回転がしてきたよ、ユカリ!」
「ありがとうね。グリュエー」
ちらと焚書官が転がっていった方にユカリは目をやった。すると通りの向こうから、その場の誰よりも巨体の焚書官がこちらへのしのしと歩いてくる。はるか背景に聳える岩山からやってきた影で出来た魔物のようだ。グリュエーが転がした焚書官を軽い荷物でも持つように脇に抱えている。
そして頭につけている仮面は他の焚書官と違い、特別のものだった。しかしその意匠は山羊ではない。海の向こうの土地に住むという鎧を纏ったような獣、犀の意匠だ。鼻先の角が、燃え盛る炎のような輪郭になっている。チェスタの山羊の仮面の意匠も燃えているのは頭ではなく角だったのか、とユカリは思い返す。
犀の仮面の焚書官は意味ありげな夕暮れの影のように黒い衣をなびかせて、罵り合う集団を兄弟喧嘩を見守る親のように睥睨する。
「いったいこれは何の騒ぎだね? まるで徒党を組む悪党と果敢に抵抗する若者たちじゃないか。まさかこの娘たちが魔女の牢獄に関係しているというのかね?」
がっしりとした顎を開くと、まるで青銅の銅鑼の音のような声が辺りに響く。言葉遣いは丁寧だがその声色だけで威圧的だ。
「そこの蹲っている娘が、我らの信仰を侮辱したのです」焚書官の一人が抑え込んだ感情を漏らしながらそう言った。「平和の使者に比べてどうのこうのと、訳の分からぬことを」
犀の仮面の焚書官は真っすぐに結んだ口をはっきりと動かす。「それで君の信仰が揺らいだと、そういうことを君は言いたいのかね? そしてその娘を懲らしめなければ己が信仰は守られないと?」
問われた焚書官は驚いた様子で半歩後ずさる。
「いいえ、とんでもありません」焚書官の声は震えている。「私の信仰はいずれ来る救世の乙女の御心に捧げております」
「己が信仰が堅牢なる砦であるならば、なすすべもなくただ門を叩く者を、侮辱だと打ち据える意味があろうか? 君が、救世機構の聖職者が、為すべきことは侮辱に対する制裁だったのだろうか?」
説教される焚書官は首を振る。唇を歪め、後悔を滲ませている。
「いいえ、異教の徒に教えを説き聞かせ、その罪を赦すべきでした。申し訳ございません」
犀の仮面の焚書官はその巨躯を大きく腕を広げ、勢いよくその反省する焚書官を抱きしめた。
「一人一人の贖罪こそが肝なのだ。愚かな焚書官よ」犀の仮面の首席焚書官は震える声で力強く言う。「贖罪こそが救済機構の使命たる世界の清めの第一歩なのだと努々忘れてくれるな」
抱き締められるままに焚書官は何度も何度も謝罪を繰り返す。
「さて、娘よ。私からも謝罪させてくれたまえ」犀の焚書官は振り返り、立ちはだかるユカリと銀鎧にも目を向ける。「そして想像するに貴方がたはその娘を救うべく割って入ったのだろう。その勇気と正義を称えると共に、我らの未熟を赦し給うようお願い申し上げる。いずれも修業の身、どうか容赦いただきたい」
「私は何も気にしていないので」とユカリは恐縮する。「それに少しやりすぎたかもしれません」
犀の焚書官の脇に抱えられて動かない焚書官にユカリは目をやる。
「今さっきの風は君の仕業だったのか。中々強力な魔法使いとお見受けする」と犀の焚書官は称賛する。
勢いで自白してしまった自分を呪う。黙っていればよかった。
「いえ、まあ、まぐれですよ」
犀の仮面のどこかにある覗き穴からじっと見つめる視線を感じた。
「僕はただ」銀鎧が剣を収める。「悪党をこらしめたかっただけさ。一人の正義の徒としてね」
焚書官たちは何か言いたげだったが、堪えていた。
「とりあえず、この人は解放してもらえませんか?」とユカリは若い娘を立ち上がらせる。
「まことにその通り。まずはそうするべきだろう」そう言って犀の焚書官が一歩退くと、他の焚書官たちも道を開けた。「我々から何かを要求するつもりはない。その娘の随意に任せよう」
娘は毛を逆立てた猫のように飛び退くと一言を残すことなく街の死角の向こうへと走って逃げた。
「ああ、話を聞こうと思ってたんだった」とユカリは呟く。
「転がす?」とグリュエー。
「転がさない」とユカリ。