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「初恋という毒」
🟦🏺 シリアス
つぼ浦匠は恋をした。それは恋と言うしかない感情だった。
恋を知らず、恋愛の機微を知らず、胸の高鳴りを知らずに生きてきた二十余年。
それは初恋だった。
1
その日は唐突に訪れた。つぼ浦はいつものように犯罪者を追いかけロスサントス中を駆けずり回っていた。
銀行強盗だと言われて駆けつければバーバリアン田中にキャップを人質に取られ、涙ながらにパトカーで跳ね飛ばし諸共に海に落ちた。
今日も遺憾無くつぼ浦は「つぼ浦匠」をしていた。ケチの付け所もないほどの完璧な特殊刑事課、1の火種を100の大火に変え、100の面倒事を1の爆発で完封するトリックスター。ロスサントスという舞台の上、警察という役割で八面六臂の大活躍をしていた。
そして今、海に落ちた身体は冷たいのにやけに高揚していて、目の前が妙にカラフルだった。
太陽が2つに増えて、アスファルトはスポンジのように柔らかくて、腹からにじむ血がアロハシャツに新しい花を何個も描くころ、つぼ浦の頭に強い衝撃が走った。直後、警官のダウンを知らせるアラート。バランスを失った身体は勝手に地面に叩きつけられていた。
「チクショウ、逃さ、ねえ……」
頭を打ったせいで余計に視界が瞬いた。それでもつぼ浦はダウンした身体を無理矢理引きずり起こそうとした。血の抜けた身体は寒いのに体の芯はやたらと熱い。手のひらにジャリジャリと石の粒がめり込むだけで腕にも身体にも力が入らない。それどころか周りの景色が万華鏡にでもぶち込まれたかのようにキラキラ、ぐるぐる回っている。
いつだったかドラッグを「味見」したときはもっとひどい目にあった。しかし今日のこれは違う。謎のトリップで朦朧とするつぼ浦の耳にパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「どしたのつぼ浦?なにがあったー?」
倒れたままのつぼ浦の視界に黒い鬼の顔がぬっと現れた。
「どうしちゃったの?」
「走馬灯が速すぎて困ってるぜ」
「は?なになに?」
「人生の振り返りはメリーゴーランドくらいの速さで頼むぜ、チクショウ、ガキのコーヒーカップくらい景気よく回ってやがる」
「え、なんの話?本当にどうしたの?!」
胡乱なことばかり言うつぼ浦の様子に尋常ではないものを感じ、青井は横に膝をついた。つぼ浦の腹には今も血の滲む傷があり、そしてその顔は出血多量で倒れたにしては妙に赤く火照っている。
「撃たれだだけ?」
「こんなもん、かすり傷だぜ」
「また失血死?お前さぁ出血してるんならちゃんと応急手当しなって、かすり傷でダウンしてちゃ世話ないよ」
「説教かァ?……ア?なんでアオセン二人いるんだ?チクショウ、カニくんの変装か?」
「待って、さっきから何が見えてんの?大丈夫?」
「大丈夫だぜ、俺はいつでも元気なんだぜ」
語尾のかすれた声では説得力は皆無だ。青井はふと気づいてグローブを外そうとした。しかし留め金が引っかかってすぐに脱げず、面倒くさくなって舌打ちをして鬼のヘルメットの方を脱いだ。
つぼ浦のカラフルな視界に青井の素顔が映った。久しぶりに見る顔だった。左腕がつぼ浦の身体を抱き起こし、その顔がどんどん近づいてきてつぼ浦は思わず息を飲んだ。
唇でもぶつかるのではないかという距離で、コツン、と前髪をかき上げた青井の額とつぼ浦の汗まみれの額がぶつかった。つぼ浦は地面に投げ出したままの手を握りしめた。大きく息を吸って、なにか罵声を浴びせたかったのに声にならなかった。
「ほらやっぱり、熱あるよ!」
すぐさま身体を起こして青井は大声を上げた。水を垂らしたら湯気が出るのではないか、というほどの熱だった。
「バカは風邪、ひかないんだ、ぜ!」
「それじゃつぼ浦がバカってことになるやん、やっぱ頭ダメだな」
「失礼だぞ、熱、なんか……」
「あるんだよ、たらふく熱出てるんだよ」
複雑にハレーションを起こす視界の中でも青井の呆れ顔はよく見えた。腹が立つほどに綺麗で、ずるいくらいに整った顔。まだ少し乱れたままの前髪が、手袋がすぐ脱げなかったというだけで子供っぽくも熱を測るために額を押し当ててきた事実を物語っていた。
どくん、とつぼ浦の心臓が突然強く打った。急に息が苦しくなって反射的に背中を丸めた。
「大丈夫?」
「くる、しい」
「え、そんなに?」
嫌な音を立てて呼吸するつぼ浦に驚いて、青井は上半身を抱き起こして膝の上に乗せてやった。傷と熱で瀕死の南国刑事からはいつもの威勢は消え失せていた。
さすがに心配になって青井はつぼ浦の身体を見回した。むき出しの腕には細かい傷がたくさんあって、サンダル一枚で果敢に走り回る足も傷だらけだった。
「無理ばっかすんだから……でもお前にはお前の正義があるんだもんね」
青井はハァ、と一つため息を落とした。手品のタネ、あるいは舞台上で暴れまわる道化、その舞台裏を垣間見たような気分だった。
「でもたまには休んでもいいんだよ?いつも気を張ってるのも疲れるでしょ」
手足の傷に目を落とし、それから青井はつぼ浦の胸にぽんと右手を乗せた。
電流でも走ったかのようだった。青井の抑揚のない声が驚くほど鋭くつぼ浦の胸を刺した。心臓が激しく打って破裂しそうだった。つぼ浦は目をこれでもかと見開いて、それから急に怯えたように首を振った。
「なんで、なんでだよ」
「だからー、俺の前でくらいはいいんだよ、休んでも。黙っといてあげるから」
「なんで、そんな」
「どしたの?」
「おかし……なんか、なんで」
熱で燃えるような呼吸でつぼ浦は訴えた。流れ込んでくる何かをせき止めなければならなかった。流されることが恐ろしかった。
青井の手が、額が、触れられたことのない場所に触れていた。自分でも見ることのできない胸の奥、もっと根源的な魂にまで光を当てられたかのようだった。
手が置かれている胸が熱くてたまらない。このまま燃やされるのか溶かされるのか、それとも殺されてしまうのか。わけがわからなくてつぼ浦はただただ困惑を口に出すことしかできなかった。
「大丈夫だよ」
熱で朦朧として挙動不審なつぼ浦に、青井はできるだけ優しくそう告げた。
「こんなに熱あったらさすがの頭も回らんでしょ。今は何も考えないで、早く元気なつぼ浦くんに戻ってね」
「は……?なんでだ」
「なんでって……こっちも張り合いがないから。対応課とか嫌だけど、つぼ浦はやっぱり元気じゃないと」
それを聞き返されるとは思わず、青井は首を傾げながら渋々答えた。トムとジェリーも片方に何かがあったらさすがに心配をするものだ。
青井の膝に抱えられながら、つぼ浦は煮えた頭で今の出来事を整理し直そうとした。しかしどうしても思考がまとまらない。
そうしているうちにヘリの音が近づいてきた。青井はつぼ浦をゆっくり地面に下ろしてから立ち上がり、鬼のヘルメットを被り直す。それから救急ヘリに手を振った。
「すごい高熱で、呼吸も苦しいらしいんで見てあげて」
運転席の神崎に伝える青井の声が最後に聞こえ、つぼ浦を助手席に押し込んだヘリはふわりと離陸した。
*
ヘリは時々揺れながら病院へと飛んでいた。つぼ浦の歪んだ視界に日の暮れ始めた街がぼんやりと映る。
「……なぁ、大丈夫だよ、って言ってくれ」
「あ?」
今まで死んだように黙っていた男に急に話しかけられ、神崎から驚きの声が上がった。
「なにいってんだお前、熱でおかしくなったか?」
「いいから、言ってくれよ」
ちらりと顔を覗くと色の濃いサングラスの向こうに死にかかった目があった。天敵として茶化す気持ちよりも医療従事者としての気遣いが勝ち、神崎は咳払いをしてから口を開いた。
「大丈夫だよ」
「ああ、大丈夫だな」
「オイ、なんだよこの会話!?」
改まって言うのは少し恥ずかしかったというのに臆面もなくあっさり返され、神崎はプンスカ腹を立ててヘリを病院前へと降下させた。
「……なんで大丈夫じゃねぇんだ」
遠慮のない着陸の振動でつぼ浦のつぶやきはかき消えた。
担架に乗せられ、あれこれ問診されながらもつぼ浦は上の空だった。
ちっとも大丈夫ではなかった。気安く詰められた距離と青井の言葉で頭がいっぱいだった。
流れ込んだ感情は、湧き上がる感覚は、今までの人生のどのページをめくっても載っていなかった。
この世界で青井の言葉だけが特別で、その声は誰にも見せたことがない「つぼ浦匠」の舞台裏に届いていた。
ぽかん、と胸の中に何かが咲いた。
色も形もわからないそれに付ける名前を、つぼ浦は「恋」だと思いこんでしまった。
2
翌日、すっかり熱が下がったのに、つぼ浦はまだふわふわとのぼせたままだった。
地に足がつかない。少しだけ身体が浮かび上がったような感覚でどうにも落ち着かない。冷静になれば大したことではなかったような気がするし、深刻に考えると底が見えない。
「……んだってんだよ、俺らしくねぇ」
両手で頬をパチンと叩いてつぼ浦は寝床のソファーから立ち上がった。タイミングよく発砲通知とコンビニ強盗の通知が立て続けに飛び込んできた。
『特殊刑事課つぼ浦匠、On Duty!今のコンビニ強盗向かいます!』
無線に威勢よく名乗りを上げてつぼ浦は階段へと駆け出した。無線には同僚たちからの挨拶が返ってくる。その中に『おはよ~』という間延びした声があった。
階段を踏みしめる足が行き先に迷った。倒れるように手すりを掴み、つぼ浦は歩みを止めざるを得なかった。
喉の奥が締め付けられるように苦しい。細分化される前の感情が胸を直接叩く。
その感情に付く名前を、つぼ浦は一つしか知らなかった。
*
焼ける太陽のもと、人質として手を上げるズズの悲鳴がビルの合間に響き渡る。ズズが人質になったとなればその犯罪は茶番もとい新喜劇だ。ギャグの強要をされて泣き叫ぶさまを、つぼ浦は少し離れたところで愛車のジャグラーにもたれかかって眺めていた。
「恋」というものはつぼ浦にとって常に無関係だった。
結局人は誰しも自分が一番可愛い。他人のことで何も考えられないくらい心が支配される恋などというものは存在自体が非合理だ。
俺は俺が一番大事だ。大事な自分をどう扱ったって構わない。どうせ燃え上がるならくすぶる熾火よりも藁をくべるような天高い炎を。その一心でつぼ浦は命を燃やし続けた。
奔放な魂が強いたその生き方は、坂を転げ落ちることさえ楽しみだと思わせた。
しかしその燃え盛る炎の向こう側に初めて手を突っ込まれた。青井は炎の奥に隠れた抜き身の心を撫でてきたのだ。
どうしてそんなことをされたのか。IQ99のつぼ浦でも少しもわからなかった。
「……ぼ、……つぼ」
「アー……?」
「つぼつぼ、しっかりしなさい」
つぼ浦の前で水色猫耳メイド服の強面の男が首を傾げていた。誰の名前を呼ばれたのか一瞬わからずいぶかしげな顔をするつぼ浦を見て、大きくため息をついている。
「今日は身が入ってないな、何かあったのか?」
「キャップぅ……」
憎たらしいが頼りになる上司に心情を吐露しようとしてつぼ浦は戸惑った。いざとなると言葉にならなかった。
「どうした、話しなさい」
「……イヤ、わかんねぇんっすよ」
「何がだ」
「それもわかんねぇっす」
「わからないのか」
「わからないっす」
進展のないトートロジーで時計の針が無為に進む。小憎たらしい部下が明らかになにかに囚われていることはキャップにもわかる。しかし本人にもそれがなにかわからないのならお手上げだ。
こういうときには心配してくれる殊勝な上司のことを視界の端に捉えつつ、つぼ浦は行き先のないため息をついた。
胸がずっとざわめいて仕方ない。それに付ける名前をつぼ浦は一つしか知らない。しかし、どうしても認めることができなかった。
恋愛の機微すら薪にして燃えながら生きてきたのだ。しかし青井の手はその生き方を強いる魂そのものを撫でたような、ありえない心地よさがあった。
あの心地よさに飲み込まれたらきっともう戻れない。心を乗り越え魂にさえ手形を付けられた事実をつぼ浦はなんとか見ないようにした。
「おいバカ?!」
キャップがなにか血相を変えて叫んでいるのがつぼ浦の視界に入った。つぼ浦が「ア?」と言って車から身体を起こすのと、足元に転がってきたのが流れ弾ならぬ流れグレネードであることに気づいたのはほぼ同時だった。
閃光と爆音。グレネードだけでなく車の爆発にも巻き込まれたつぼ浦は空中で2回転くらいしてから路肩に叩きつけられた。
「チクショウやられたぜー!!キャップ〜ッ仇を討ってくださいー!!」
「すまんつぼつぼ!!ズズがスベったから全部なかったことにしてやろうとしたんだ!」
「チクショウ、こいつが仇だったーッ!!!」
全身の痛みに耐えながら絶叫するつぼ浦を見てその場の全員が笑っている。特殊刑事課の事件対応もズズと同じくらいの新喜劇だ。つぼ浦の命は藁のように軽い。キャップにどうやって借りを返させるか考えるつぼ浦の耳に、状況を見て爆笑する聞き慣れた声が飛び込んできた。
「これ面倒見ておくんでー、キャップはチェイスしてきてくださいよ」
急に体がこわばった。つぼ浦がいま一番会いたくない鬼の顔をした男がいつの間にか横に立っていた。
「らだおくん、君もたまには参加したまえよ」
「いや地上はちょっと」
青井とキャップが押し問答になるより早く、犯人がズズを捕まえたまま逃走を開始した。大声で威嚇しながらライオットで走り去る上司のことを、つぼ浦は忌々しげに見送った。
「いや~おもろかったな、あそこでズズにグレが決まってたら最高だったのに。つぼ浦が爆発するのはダメでしょ、デザートが先に出てきちゃったよ」
青井はまだ笑いの残った声でつぼ浦にニヤニヤ話しかけてきた。寝転がったまま見上げると青井はずいぶん身長が高く見える。そんな細かいところに目が行ってしまうことが嫌でつぼ浦は唇を噛み締めた。
話しかけても答えないのがさすがに気になり、青井は大の字で倒れるつぼ浦の横にしゃがみこむ。
「どうしちゃったの?」
「……わかんねぇ」
「え、また熱でもあるの?」
「ある……かもしれないな」
熱、と聞いてつぼ浦の心がざわついた。───また素顔になってくれないだろうか。そんなことを期待していることに気づいて鳥肌が立った。
今のつぼ浦は一隻の小舟だった。恋という濁流に流され、滝にでも行き当たれば粉々になってしまう。そうでなくても見えない渦が今にも船を飲み込もうと待ち構え、なによりその川がどこにたどり着くのかさえわからない。
「アオセン、おれ、おかしくなりたくねぇんだ」
全身全霊を賭けて絞り出した懇願だった。呼吸がいっそう荒くなり、胸ははち切れんばかりだった。
対する青井は鬼の顔の向こうで苦笑した。
「へぇ?どういうこと?」
「だから、おかしくなりたくねぇんだよ」
「何言ってんの、お前もともとおかしいやん」
「変だ、変だこんなの」
それは必死のSOSだった。全部が勘違いであってほしいというつぼ浦の最後の防衛本能だった。
青井の言葉は心地よくつぼ浦の心を揺さぶってくる。だからこそ委ねることが恐ろしかった。
「なに急に真人間みたいなこと言い出して、明日は雪かな」
青井はいつものように茶化した。しかしどうにも温度感が違う。つぼ浦の目は泣きそうなほどに必死で、その手は小刻みに震えていた。
つぼ浦はなにかに怯えている、しかしなにに怯えているのかはわからない。青井は仕方なく言葉を探した。
「……まぁ、お前はもっと自分を大事にしなよ」
青天の霹靂だった。つぼ浦はヒュッと音を立てて息を飲んだ。
「な、んだって?」
「大事にしろって言ってんの、何に悩んでるのか知らないけど。いつも無茶苦茶ばっかりでさ、”つぼ浦くん”が可哀想じゃん」
青井はしゃがんだままつぼ浦の頬をいたずらっぽく指でつついた。不意打ちのような青井の言動につぼ浦は呼吸の仕方も忘れてしまった。理解ができない。目だけを子供のように瞬かせた。
「かわいそう?おれが?」
「そう、たまには大事にしてあげてよ。……誰にも言わないからさ」
抑揚のない淡白な声なのに、それは天啓のようにつぼ浦に降り注いだ。
火が出るのではないか、というくらいつぼ浦の身体が熱くなった。高揚から瞳孔が開いて火花が散るほど目の前が明るく見えた。
「おれが、大事ってことすっか」
つぼ浦は一言一言を噛みしめるように言った。いつものつぼ浦とは程遠い、泣きそうなくらい震える声だった。
誰よりも大事な自分を自分以外の誰かが大事にしてくれた。あいつはそういうやつだと投げ出さずに舞台裏のつぼ浦に気づいて手を伸ばしてくれた。
それは心を貫いて魂にまで容易に届くほどの感動だった。
「なぁアオセン、どうなんだよ」
「え?その……そうだね、大事ではあるか、うん」
「アオセンが、おれを?」
「そうだよ、だって元気じゃないとまた無茶苦茶できないでしょ?」
「本当に?本当に大事なのか?俺が?」
「なんなんマジで、だから大事にしてあげてよ。もう、何度も言わせんなよ!」
青井は呆れたように大げさなため息をついて、つぼ浦の胸をポンポン叩いた。それから身体を起こして救急無線に切り替えて救助を要請し始めた。
痛みはいつの間にか消え去り、ただ満たされた感覚だけがあった。
つぼ浦はついに降参した。この感情は、恋だ。青井に恋をしてしまったのだ。
そして自分が恋という大河に流されていることをはっきりと理解した。額を突き合わせたあの熱、舞台裏に向けたようなあの言葉、すべてが美しい初恋へのきざはしだった。
恋を受け入れてしまえば理解も早かった。つぼ浦は気づいてしまった。そもそも熱を測るためだけに額を押し付けるような真似も、誰にも言わないからと手を差し伸べるのも、好意がなければするわけがない。少なくともつぼ浦の教科書ではそうだった。
───青井も、つぼ浦のことが嫌いではないのだろう。もしかすると好きなのかもしれない。
そして今つぼ浦も青井に恋をしてしまった。
「……ア?これ、アレ、か?りょ、りょう、りょうおも……い?」
「救急来てくれるって、よかったね」
「ゥゴフッ!?」
心の声が口から漏れ出していたつぼ浦に青井が気安く振り向いた。一気に頭が沸騰し、飲み込んだ唾が気管に入り、むせながら叫ぼうとして舌を噛み、つぼ浦の喉から獣のような唸り声が上がった。
「なになに、どしたの?なんか邪悪なピタゴラスイッチみたいなこと起きなかった?」
「う、う、うるせぇ!なんでもねぇ!!」
青井に見られているだけで胸の奥深くまで光を当てられたような気分だった。恥ずかしさのあまりダウンしたまま手足をビチビチさせるつぼ浦を見て青井は怪訝そうに距離を取った。
「……クショウやられたぜ、じゃあ……ン?つまり、どうしたらいいんだ?」
つぼ浦の小声の困惑は青井には聞こえなかったようだ。少し離れたところで呑気にポケットからタバコを取り出している。口にくわえるためにヘルメットを脱いで──その横顔を見てつぼ浦の心臓は数秒止まった。
あの日救いを与えてくれた顔だった。
「恋」だと思い込んだなにかがきれいに咲いた。
初めて咲いた恋の花。他人のそれを手に入れる難しさを、恋愛にまつわる全てを火にくべてきたつぼ浦は知らなかった。
3
浅い眠りから覚め、つぼ浦はゆっくり目を開けた。見慣れた休憩所の天井と、窓から差し込む柔らかい日差しが頬を温めていた。
あまり使われていない二階のオフィスはとても静かで、自動販売機のコンプレッサーだけが低いうなりを上げている。つぼ浦は身体を起こし、差し込む朝日をぼうっと見つめた。チンダル現象を起こす光の筋はまるで天国の階段のようだった。
つぼ浦が恋を自覚してから初めての朝だった。頭を沸き上がらせた熱はとっくに冷めているのにどこか浮ついたままで、しかしソファーから立ち上がると妙に地に足がついたような気分だった。
「……アオセン、俺のこと大事なんだよな」
昨日も寝る前に噛み締めた言葉をつぼ浦は小声で繰り返した。言葉にならない興奮が胸を満たす。青井のあの声を思い出すと口が勝手にニヤつくのを止められなかった。
フワフワした気持ちのまま、つぼ浦は階段を降りて駐車場に向かった。
いつもの風景が妙に落ち着いて見えた。古びた塀に生えた苔に弾ける朝露は玉のように美しく、その上を歩く小さな蜘蛛の足取りまで可愛らしく見えた。冬の朝のような静謐さが視界をクリアにし、呼吸までもが澄み渡って肺を満たしていく。
つぼ浦は上の空のまま手癖で無線をつけた。何らかの犯罪のカーチェイスをしているようで、皇帝やオルカの騒がしい声が聞こえてくる。出勤の挨拶もせずにつぼ浦はそのやり取りをしばらくぼうっと聞いていた。
今までは前に進むためにがむしゃらに手足をばたつかせていたのに、立ち止まっていても世界は動いていた。
身体が残り火に焦がされて、たまらず割って入って挨拶しようとしたとき『金持ち、東高速北上中』というあの平坦な声が聞こえてきた。
その瞬間、つぼ浦の目の前で色がはじけた。
世界には炎と爆発以外にも色があったことを、その日初めてつぼ浦は知った。三原色を混ぜ合わせて光り輝く世界はなによりも鮮やかにつぼ浦の胸に色を落とした。
その光を放っているのは青井だった。
青井の照らす光のせいで、つぼ浦の世界はすっかり変わってしまった。
「……大事にしなきゃな、俺」
つぼ浦はゆっくり無線を切った。同時に荒々しい警察というものからもふっつりと切り離されたような感覚があった。
ただそれだけであっさり舞台から降りられたことに少しだけ驚いて、つぼ浦は駐車場を出て大通りを歩き出した。足取りは軽く、踏みしめる足は確かなものだった。
青井に掴まれた心の形が戻らない。青井の形に魂がへこんでしまってとても苦しい。魂にまでつけられた手形が何かを渇望してやまない。
「恋」と名前をつけてみたものの、その渇望をつぼ浦はうまく処理できずにいた。
*
焼けた鉄を溶かし込んだかのように、オレンジ色の夕日が水平線に溶けていく。一日の終わりを告げる日没をつぼ浦は海沿いのベンチに腰掛けて眺めていた。
驚くほど静かな一日だった。朝、警察署を出てから車も出さず、つぼ浦は気の向くままに街を歩き回った。
恋をすると景色が変わる、世界が変わる。凡庸な文句が本物であったことをつぼ浦は思い知った。舞台から降りても続く世界を歩き続け、長い散歩の終点が遊園地のある海辺の桟橋だった。ここで同僚とともにギャングの人質に取られ、苛立ちからリスポーンしたこともずいぶん昔のことのように思えた。
鳥の群れが山の方へ飛んでいく。つぼ浦は足元に転がっていた小石を桟橋から太陽に向かって投げた。波の音にかき消され、それが水面に落ちる音は聞こえなかった。
青井の言葉でつぼ浦の頭はいっぱいだった。胸の中で感情ばかりが膨れ上がって苦しかった。額を押し付けた熱も、つぼ浦が特別だと告げる言葉も、つぼ浦には好意にしか思えなかった。
「んだよ、リョウオモイって……それで終わりじゃねぇのか?」
絶対に青井はつぼ浦が好きだ。その確信がつぼ浦にはあった。しかし「両思い」のマスにコマが止まればそこで恋愛すごろくはあがりのはずだった。そのはずなのに、つぼ浦にはわからない謎のマスがその先にまだ続いていた。
何度目かの恋の悩みのため息がつぼ浦の口から漏れた。その先にコマを進めたくても道が見えなければ身動きが取れない。つぼ浦の恋愛の教科書は果てしなく薄くて内容がないのだ。
「俺はこんなに頭がいっぱいで、きっとアオセンも好きで、それで……」
つぼ浦はもう一つ、小石を投げた。手から離れる瞬間に指先が滑り、勢いのつかなかった石は桟橋の手すりにぶつかって虚しく跳ねた。跳ねた先に人影があった。
「こんなところにいたのか、つぼつぼ」
湿ったため息を吐き出した顔のまま、つぼ浦は声の方向に首を曲げた。屈強な身体を水色のメイド服に包んだ上司が腕組みをして立っていた。
「なんすか?」
「こっちのセリフだ。腹でも痛いのか?まさか借金でもして逃げてるのか?」
「ア?なんもないっすよ」
聞き慣れた上司の声にどこか懐かしさを感じ、つぼ浦は開きっぱなしだった口をとりあえず閉じた。
キャップはサングラスの向こうで眉をひそめた。つぼ浦はふてぶてしくベンチに深く腰掛けている。一見いつもと変わらない部下に慎重に話しかけた。
「……今、ヴァンダーマーに借りがあってな。罪状は何でもいい、あいつを捕まえてくれたらボーナスやるぞ」
「ああ、そうなんすね」
「いいのか?成瀬くんもやる気だったぞ」
「カニくんなら適任じゃないっすか?俺はそういう危ないのはいいっす」
にべもない態度にキャップは苛立ったように舌打ちをした。
「はぁ……どうしちまったんだ?」
キャップから思わず不信の声が出た。つぼ浦の目はどこか遠くを見ていて、キャップのことを見ようともしない。仕方なくキャップはベンチの前に回り込んだ。沈みゆく夕日が巨体に遮られ、初めてつぼ浦はキャップの顔を見上げた。
「んだよ、なにがっすか」
「今日はずっとここにいたのか?」
「イヤ、散歩してました」
「散歩って、徒歩でか?」
「キャップの地元だと徒歩以外の散歩があるんすか」
「危ない、水掛け論はやめなさい。なんでそんなことをしてたんだ?」
なんで、という問いがつぼ浦の背中を滑り落ちた。改めて問われると上手い答えが出てこなかった。つぼ浦が答えに迷っているように見えてキャップは首をかしげた。
「まさか車もなくしたのか?気に入ってるのあったろう、あのオレンジ色の……」
「だって、きれいなんっすよ。世界が」
「は?」
「見て回らないと、幸せなんだから」
答えながらつぼ浦の顔が思わずほころんだ。青井に手を取られて舞台を降り、恋に浮かれる視界は映る全てが鮮やかで、ただそれを見ていたかっただけだった。
とりとめのない、結びつかないつぼ浦の返答を聞いてキャップはたじろいだ。腕組みをして悩んだ末に、おもむろに背中に背負っていたロケランを手に取った。
「戻ってこい、つぼ浦」
そしてその先端をつぼ浦に突きつけた。予想だにしないキャップの行動につぼ浦は目を見開いた。
「戻るって、何にっすか?」
「いいから、四の五の言わずに戻ってきなさい!」
その言葉が妙につぼ浦の気に障った。まるでなにかが間違っているかのような言い様だった。
キャップが続けてなにか言おうとするより先に、つぼ浦はベンチから飛び上がった。そして背中のバットを抜いてその横っ面を殴り飛ばした。手から振り落とされたロケランと、ふっとばされたキャップがそれぞれ砂煙を上げて地面に倒れ伏す。
「イデデデッ!?そうだつぼ浦、お前は……」
「危ないっすよ、こういうの人に向けちゃ」
安堵の色が見えたキャップの表情がつぼ浦の平然とした言葉で凍った。
「お前ッほんとにどうしたんだ!?」
「こっちのセリフっすよ、どうもしてないのに」
淡々と答えながらもつぼ浦は自分の行動に少しだけ驚いていた。幸せでたまらないだけなのに、また舞台へ戻れと手を引かれたような気がして一瞬で頭に血が上ってしまった。ただ上司を殴り倒すのは日常茶飯事なはずなのに、今回だけはなんとなく手応えが違った。
「な、何言ってるんだ」
「だってアオセンが俺のこと大事って言ってくれたから……」
「あ?聞こえないぞ、なんだって?」
「俺は、自分を大事にするって決めたんっすよ!!」
つぼ浦は胸に手を当てて堂々と言い放った。恋に裏打ちされた鋼のような言葉だった。こんな恥ずかしいことを人前で言えたという事実が体中にじわじわと染み渡り、幸せすぎて口が緩みっぱなしだった。
「はぁ……?だからこんなことしてるのか?」
しかし地面に倒れたままのキャップの顔色は優れない。殴られているので打撲で内出血を起こしているが、それ以前に真っ黒サングラスでもわかるほど怪訝な顔をしている。
「誰かになんか吹き込まれたのか?」
「アァ?人聞きが悪いっすよキャップ!俺だからああ言ってもらったんだぜ」
「さっきから何の話なんだ?なんか言われたって、お前が?勘違いじゃないのか?」
「んなわけねぇ、ちゃんと言ってもらえたっすよ!!」
キャップの目の前で仁王立ちするつぼ浦は思春期の少年のようにキラキラと目を輝かせている。それを見てどんどんキャップの顔色が曇る。
つぼ浦はずっと恋の話をしているのに、キャップからすると闇落ちか?ギャングにでも勧誘されているのか?と疑うしかない。それほどまでにこの初心な部下が突然恋に落ちるとは想定できるわけがなく、疑いの目を向けたまま説得を続ける。
「つぼつぼ、騙されているんじゃないか?ちゃんと確認したのかね」
「ハ?かくにん……って、キャップの故郷だとそういう」
「聞きなさい。じゃあ確認もしてないのになんか言われただけでそんなにおかしくなったのか?」
「んだよおかしいって、聞き捨てならないですよ」
「でも確かめてはいないんだろう?その、なに言われたかまでは知らんが。お前なら契約書までせびりそうなのにな」
その言葉でつぼ浦は返答に迷った。状況的には間違いない。つぼ浦の恋愛の教科書的にはあれで両思いではないわけがない。しかし確かめたのか、と言われるとしていないのは事実だ。
確認したのか、という言葉はつぼ浦の胸に妙に刺さった。
青井の言葉を頼りに血なまぐさい舞台を降りたはずだった。間違いがないはずの道を辿ってここに来たはずだった。
苦しげに喉が鳴る。恋を自覚してから一度も見えなかったなにかが目の前を掠めて───
「即答できないな。自信がないんじゃないか?」
「ん、な、わけねぇ!!」
つぼ浦は力任せにバットを振り下ろした。二回、三回振り下ろすうちに余計な言葉は聞こえなくなった。
「……ッ、チクショウ、変なこと、言わないでくださいよキャップ……。これでいいんだ、アオセンは……」
整わない呼吸のままつぼ浦は呟いた。足元に広がる赤色からは返事はない。
「アオセンが、大事だから俺は俺を……だって俺が怪我なんてしないで、無事でいるのが一番いいだろ……?大事なんだから、俺は」
空を見上げると太陽はとうに沈み、残照が雲の交じる空をまだらに染めている。灰色の腹を見せる魚の群れのような空も今のつぼ浦の目には美しく見えた。
誰かに大切にされたという事実が信じられないほどにつぼ浦を強くしていた。その根幹を揺るがすような言葉は存在してはならないものだった。
しかしこの恋を盤石なものにするにはそれから目をそらすわけにはいかない。つぼ浦は数歩、街の方に歩みだして立ち止まった。薄っぺらい恋愛の教科書を心で読み直す。
「確認、確認って……そうか、チクショウやられたぜ、「告白」ってやつか!!」
そしてついに思いついた。下駄箱に入れるラブレター、校舎裏での甘酸っぱい告白。つぼ浦の人生には無縁だったが、恋というものにはその作業がある。両思いが自明でも確認作業をしなければならないのだ。
「アドバイスありがとうございます、キャップ!」
背後に声をかけるとつぼ浦は堂々と歩き出した。
つぼ浦がつぼ浦だった舞台を降りた世界は驚くほどに平穏で、恋に落ちた視界はあまりにも鮮やかだった。
その世界にはまだ、青井本人が足りない。青井の言葉が、温かさが、光が足りない。
胸に咲いた「恋」という名前の花がどんどん枝葉を伸ばしていく。身体を焦がす渇望がくっきりとその正体を露わにしつつあった。
「くっそ……なんて言えばいいんだァ!?!」
そして数多の乙女、あるいは少年がぶつかってきた問題につぼ浦も直面した。
こんなときに限って饒舌さは鳴りを潜める。スマホを取り出して気の利いた告白の言葉を検索しそうになってグッとこらえた。誰かに相談するという選択肢もない。この恋を誰かに漏らしてしまえば一緒に何かがこぼれ落ちてしまいそうで、つぼ浦はスマホをポケットに乱雑に戻した。
これは一世一代の大一番だ。魂を刻み出すような恋の告白を紡ぎ出すには時間は無限に必要だった。
コメント
4件
前編のイメソンは宇多田の「初恋」と米津の「馬と鹿」で提出といたします
読み終わったよ〜!!🥺💕 つぼ浦くんの恋、めっちゃエモかった…!✨ あのシリアスな署内で、青井が熱測るために額くっつけたシーン、心臓ぎゅってなったよ!!「大事にしろよ」の一言で世界が変わっちゃう感じ、初恋あるあるすぎて泣ける😭💖 しかも「確認してない」ってキャップに言われて慌てるところ、不器用なつぼ浦くんが愛おしすぎる!「告白の言葉探してスマホしまいこむ」とか、そのリアルな迷い、めちゃくちゃ刺さった…。青井の淡々とした優しさと、つぼ浦のガチャガチャした感情の対比がたまらん! 続き、めっちゃ気になる〜!!早く青井に告白するとこまで読みたいよ!!🔥🌸