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ベルニージュの頭の中はぐるぐると同じところを巡っていた。
何のために母はベルニージュやサクリフについての記憶をユカリから奪ったのか。
ゲフォードこと魔女の子ジェドが母を母と呼んでいたということは、母こそが古代の魔女シーベラだというのか。
ジェドに聞いたところ、少なくとも姿かたちは母である魔女シーベラそのものだそうだ。しかし性格というか立ち居振る舞いは別人のようだったという。母の振舞いのどこにも魔女を暗示させるものはなかったが、もとより記憶喪失の自分に何が確かだといえようか。
それに今回ユカリが記憶を奪われた症状はまさにベルニージュの記憶喪失の症状そのものだ。
ユカリのうろ覚えの記憶を頼りに、すでにどのような魔術か把握していた。なんなら使うことも難しくはない。どころか記憶の器を取り戻すためにより巧みな使い方はできないか、とベルニージュは模索していた。それでもベルニージュが記憶を取り戻していないのは、つまるところ、今こうして母を追っているように、自分の記憶を持っている誰かを見つけ出さなくてはならないということだ。
ベルニージュは時折振り返り、ユカリがきちんとついてきていることを確認する。目が合ってはにかむ様子はまるで出会ったばかりの頃のようだ。
この一週間の内にユカリの記憶を試したところ、ベルニージュが完全に姿を隠して、ベルニージュにまつわる物が何もなければ数分も経てば思い出さなくなり、数時間も経てば思い出せなくなる。そうして何事もなかったかのように一人旅を始めてしまう。
ベルニージュは母についての物事を毎朝新たに記憶するための覚書を用意しているが、それでも時折確認しなければ、昼までにはほとんど全て忘れてしまう。
ただしベルニージュの場合は個人的な物事で覚えていることがほとんど何もないので、朝目が覚めれば自分が記憶喪失であるとすぐに分かる。途中で忘れてもそのままにすることはまずない。しかし、ユカリの場合はそうもいかないようだ。放っておけば記憶喪失であること自体に気づくことなく、旅を続けていくことだろう。
ベルニージュは初めて母の気持ちの一端に触れた気がした。
独立都市卵山は山の脇に広がる街だ。赤い屋根の家々が並び立ち、大きな鐘楼が街の中心に聳えている。街の向こうにはまるで巨大な鳥の巣のような木々に覆われた小高い丘の中心に、古くから卵山と呼ばれる鉱山がある。山からは、ナボーン糸と広く呼び倣わされる軽くて頑丈な鉱物繊維、あの魔女の牢獄でも産出していた魔法の繊維カホムルが採掘される。この街はそれら魔法の繊維を利用した機織業を生業としている鉱業都市だ。
まだ空が青く山鳥が忙しなく鳴いている内に二人は街へたどり着いた。街へ入るのに苦労はなかった。アルダニ同盟成立以後に生まれた都市にありがちな外敵への警戒の薄い土地で城壁も関所もなく、人の行き来は自由だった。
ユカリは紫の目を輝かせて街並みを眺め、ベルニージュに目を向ける。「とっても可愛らしい街ですね。どの家も丸みがあります。それに、屋根の色が髪と同じ綺麗な赤です」
ベルニージュはユカリの黒い髪を見て、自分のことを言われているのだと気づく。
「そうだね。カホムルの色とも似ているんだよ。仕立屋があるなら何か一着買おうかな」
「良いと思います。きっと似合いますよ」ユカリは今度は耳を澄ます。「それでは、この音は機織の音でしょうか?」
ユカリの言う通り、この街のどこでも軽快で朗らかな機織の音が聞こえる。それはカホムルを織る音であり、熱からの加護と温もりの祝福を込める魔法の音だ。
ベルニージュは楽の音のような機織の音の間を縫うように喋る。「とりあえず宿を確保したら、怪物について情報を集めよう」
少なくともこの街で暴れた形跡はない。いくつかの町や村で搔き集めた噂を総合すると、こちらの方角へと飛んで来たのは間違いないのだが。
しかしベルニージュの思いのほか早く二人は怪物の情報を手に入れることができた。
白い立派な髭を蓄えた宿屋の主人は二人を部屋へと案内し、腕を組んで壁にもたれつつ、特に訝しむ様子もなく話してくれる。
「蛾のような怪物ならこの街の裏に潜んどるよ。卵山や丘の森の方で鉱夫が何度も見かけとるそうだ」
まるで犬か猫のことでも話すように、特に怪物を恐れるような様子もなく、狩りの獲物について語るように宿屋の主人は話した。
「怪物の姿は目にしました?」とベルニージュ。
「ああ、私も奴がこの街に飛来した時に一度見かけたな。看板を磨いていた時だ。誰かが空を見るように叫んで、私はその通りにした。その時は大きな鳥かと思ったものだが」
「何も被害は出ていないんですか?」とユカリが尋ねる。「一つ羽ばたけば人が吹き飛ぶような風が巻き起こる、っていう噂なんですけど」
「うむ。特には聞いていないな。ずうっと静かに森に潜んどる。私の知る限り、街へ降りてきたことはない。初めは人を食うのではないかと、それは皆恐れたものだがな。いざ男衆が山狩りしてみると、これがなかなか見つからない。確かに巨大な怪物が潜んどる痕跡は見つかるんだがな」
目立った争いがないのかもしれない、とベルニージュは考える。怪物サクリフは人の争うところへ飛んできて、介入し、多くの被害を出しつつも争いが収まると去っていく、ということを繰り返している。この街にはサクリフが人前に出てくる理由がない、ということだ。しかしここを去らないのはなぜだろう。まさか今この瞬間この世のどこにも争いが無いなどということはないはずだ。
「姿を現さないというのも不気味ですね」とベルニージュは言い、二階の窓から見える景色を眺める。「それでもこの街は平穏そのものですが」
「特に何も起こらんから慣れたというのもあるが」宿屋の主人も目を細めて窓の外の景色を見つめる。そこにはあいかわらず丸い卵山の姿も見える。「今は怪物を捕まえようと街の皆で考えを巡らしているよ」
「怪物を捕まえる!?」ユカリは寝台に腰かけながら驚く。「退治ではなくて、捕獲したいんですか? 一体何のためにそんな危険なことを?」
「退治も捕獲も危険には違いないだろう」と宿屋の主人は影も屈託もなく言う。「とはいえ捕獲する理由はある。この街が鉱業で発展する前からこの土地にはある伝承があってな。曰く、あの卵山は巨大な蛾の繭で出来ているらしい。さながらあの怪物のような姿だった、とされているわけだ」
さすがの怪物サクリフも山のような大きさではないが。
「それがなんで捕獲という話に?」とユカリは訝しむ。
宿屋の主人は自嘲的な笑みを浮かべる。
「カホムルの産出量が減っているんだ。この街ナボーンは鉱業で成り立っているからな。どうにかしなければ、という時にあの怪物がやってきた。あの怪物が伝承の巨大蛾と同じとは限らんが、皆一縷の望みをかけているというわけさ」
宿屋の主人が去った後、二人は寝台に腰かけて向かい合う。
ユカリが確認するように、そして呆れたような口調で呟く。「つまり、怪物を飼いならす、街の皆さんはそういうつもりってことですよね?」
「うん。ただの蛾なら幼虫を産ませて糸を吐かせるってことなんだろうけど」ベルニージュは足を投げ出してくたびれた靴を見つめる。「あれは魔女シーベラの生み出した蛾の怪物だからね。尋常の蛾と同じとは限らない。どうなんだろう」
ユカリはベルニージュの髪を見つめつつ呟く。「私、魔女の牢獄で魔法の繊維カホムルを見ましたよ。岩肌が赤く煌めいていました」
「へえ。それは初耳だよ」とんでもなく重要な事実だが、ユカリは特に隠していたつもりはないようなのでベルニージュは咎めないことにした。「そういえば、卵山も魔女の牢獄も同じような楕円体だね。じゃあもしも同じ物なら、あれは蛾の怪物の繭の抜け殻ってこと?」
ベルニージュは開かれた窓の中のナボーンの空を見つめ、卵山から巨大な蛾の怪物が出てきて空を飛ぶ様を想像した。
ユカリもベルニージュの視線を追って言う。「いったい古代の魔女シーベラはそんなものを生み出して何がしたかったんでしょうね?」
「さあねえ。魔女は月からゲフォード、じゃなくてジェドを守ってくれていたって話だけど」ベルニージュは窓の外に背を向ける。「ともかくワタシたちは記憶の回復を優先だよ。この街にワタシの母がいるはず。ユカリの記憶を取り戻さないと魔導書探しもままならないからね」
「怪物は後回しですね。最初はこの街の人たちと協力できるかも、と思いましたが。飼いならすなんてあまりに危険ですし」
ユカリの緊張した表情を見つめ、ベルニージュは一つの確信を得る。
ユカリはサクリフを覚えていないだけでなく、人間が怪物化したことも忘れているらしい。