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サイド黄
帰り道にあるスーパーで夕食の食材を買って、家路に着く。
オレンジの太陽が沈もうとしている。
早く帰って大我にご飯を作ってあげなきゃ、と歩く足を速めた。
自宅まで来たところで、カバンの中をまさぐる。「ん?」
いつも入れているはずの鍵が、なかった。仕方なく、チャイムを押す。家の中には弟がいるから、きっと出てくれる。
だが、待ってもドアは開かない。もう一度押し、少しするとやっとドアが開いて大我が顔を出した。
『トイレでも行ってた?』
大我は首をかしげる。
『チャイムの応答遅かったから』
『ああ、気づかなかった。兄ちゃん、鍵は?』
『ごめん、今日忘れちゃって』
大我と、僕らの両親は小さい頃から耳が聞こえないから、家族との会話は手話が中心だ。僕だけが健常者。大我とも、物心ついたときからずっと手話で話していた。
そしてどうやってチャイムに気づくのかというと、家の中にあるライトが点滅して、来客を知らせる。僕が家にいるときはいいんだけれど、空けることも多いから重要だ。でも、光だけだから気づかないことだってある。
『普通鍵なんて忘れる?』
『しょうがないよ、急いでたから』
兄弟同士の屈託のない会話が交わされる。
『晩ごはん、鮭買ってきたからムニエルでいい?』
『ええ、魚は嫌』
『ダメ。きちんと食べなさい。代わりにトマト入れるから』
『本当? やった!』
相変わらず好き嫌いが激しい大我に呆れながらも、料理を始める。
と、大我がつけたテレビが、大音量で流れる。というか、大我が音を思いっきり大きくしたのだ。
いつも補聴器を着けてテレビを聞くけれど、健聴者が聞くテレビの音量では大我には少し小さい。だからどうしても、大音量になってしまう。
映っているのはバラエティー番組だ。時折、スタジオの出演者や観客が笑い声を上げるたびに、リビングにも大音量の笑声が響く。
「びっくりした…」
慣れているとはいえ、突然のタイミングで驚く。今日は陽キャの人たちがたくさんいるのかもしれない、なんてことを考えていると、夕食が出来上がった。
『大我』
手招きをして、大我を呼ぶ。でも、僕の姿は視界に入っていないようで、見向きもしない。大我のもとまで歩いて、肩を叩く。
『ご飯出来たよ』
途端に明るい表情になり、ダイニングの椅子に座った。
手を合わせ、箸を取る。箸先がまっしぐらに向かったのは、やはりトマトだった。大粒のミニトマトを頬張り、おいしい、と頬にトントンと手を当てる。
僕はニコリと笑い返した。
お皿の片づけが済んだあと、パソコンでメールを返信していると、大我が肩を触ってくる。
『ちょっと待って、今大事なメール書いてるから』
実は、僕はサラリーマンであると同時に、とあるバンドのメンバーとしても活動している。今は、次のライブについて相談をしている。
大我は不服そうな顔で、立ち去ろうとする。慌てて袖を引っ張り、『なに?』と訊いた。
『僕が頼んだもの、買ってきてくれた?』
あっと思い出す。そういえば、昨日大我に言われたんだった。確か、新しいノートが欲しいと言っていたはず。
大我は店に行くことを嫌っている。店員さんと話が出来ないことが多いから、僕と行くとき以外は全く一人で出かけない。
『…本当にごめん。忘れてた。明日行ってくる』
『提出するやつがあったのに』
大我は、ろう者が多くいる大学に通っている。教師も手話を使っていて、学生もほぼ手話だからやりやすいのだそう。授業のレポートがある、と言っていたのも思い出した。
『兄ちゃんはいつも、僕が伝えることを忘れる。大事じゃないの? もういい加減にしてよ!』
大我は素早くまくし立てた。僕も思わずカチンとくる。
「しょうがないよ! 俺だって忙しいんだよ! 仕事も活動もあるから。大我とは違うんだよ!」
気づいたときには、そう口にしていた。
手話をつけるのも忘れて。
大我は泣きそうな顔で、
『何言ってるかわからない! 僕だってなりたくてろうになったわけじゃない。兄ちゃんみたいに話せたらなって何回思ったことか! 兄ちゃんのバカ!』
激しく手を動かすと、踵を返し、階段を駆け上がっていく。ドアがバタンと閉まる音がした。
やっちゃった、と思った。明らかに悪いのは自分のほうだ。大事なことを忘れていたし、大我がわからないのに声だけで喋ってしまった。
あれは、今まで知らなかった大我の苦しい胸の内に思えた。
「はぁ…」
手話では、自分のことは自身の胸を指さして表す。だから、「私」なのか「僕」なのか、それとも「俺」なのかがわからない。大我の一人称も勝手に「僕」かなと思っているだけだ。
大我は内気であまり自分の感情を表に出さない子だった。だから「俺」なんていう柄ではないと思っていた。実際、メールの一人称も「僕」だ。
でも、こっちを睨み、勢いよく吐き出すようにいった大我は、初めて見るような剣幕だった。自分の知らない「俺」の一面を垣間見たような気がした。
胸の中には、グレーな気持ちが重く溜まっていた。
続く