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サイド桃
朝、僕は優吾に向ける顔がなかった。
重い足取りで1階に降りると、兄はいなかった。テーブルには、ラップがかかった朝食が置いてある。
すぐに食べる気にはなれず、ソファーに寝転がってスマホを触る。
メッセージが一通、入っていた。優吾からだった。
『昨日はごめんな。ひどいこと言っちゃった
仕事が朝早いからもう出たよ。
たぶん昼前には帰れるかな…
朝飯置いといたから食べな』
それを読み、返信する。
『僕のほうこそごめんなさい。
兄ちゃんが忙しいのは分かってるのに
僕のために頑張ってくれてるのは分かってる。
なのに些細なことでキレて。
一人で買いに行ってくる』
起き上がり、テーブルについて朝食を口に運んだ。
今日も、僕の大好物のトマトを入れてくれている。ミニトマトではなく、普通の大きさのトマトをカットしている。
すると、卓上のスマホのバイブレーションが作動して、少し動いた。手に取り、画面を見る。
『謝んな。大我は悪くないよ
ホントに一人で行ける?
怖いだろ、俺も付いていこうか?』
ふふっ、と思わず笑みが漏れた。いつまでも心配性なのが、僕の兄だ。
もう子供じゃない。小さい頃は、一人が怖くてずっと兄の背中に隠れていた。でももう立派な大人だ。自立しなくては。
皿を洗い、着替えを済ませて出かける準備をする。
カバンを持ち、補聴器を装着して玄関を出る。深呼吸をして、歩き出した。
近くのコンビニまでの道のりは大通りだ。補聴器越しに、車が往来する音がやや聞こえる。
店に入ると、文房具コーナーを探す。目的のものはすぐに見つかった。
レジのほうをちらりと見る。若い、20代くらいと思しき女性が立っている。意を決して、レジへ向かった。
店員が何か声を発したように聞こえた。まあ多分いらっしゃいませだろう、と聞き流して、画面に表示された金額を財布から出す。
「………ますか?」
注意していなかったせいか、語尾しか聞き取れなかった。
「え?」
「……は、いりますか?」
生憎、重要なところがわからない。困り顔で首を振る。
今の時代なら、レジ袋は要りますかとかいうことだろう。有料だから、もらわないでおこう。案の定、買ったノートはシールだけ貼られて渡される。
逃げるようにコンビニを出た。
「はあ…」
頭を掻きながらため息をつく。やっぱりダメか。
俺は喋ること、つまり発音ができないから、自分から伝えるには手話か書くことしかできない。店で筆談ができればいいのに、って思う。
家に帰ると、上着を脱いで補聴器を外し、ソファーに深く腰を沈める。
(あー、課題やらないとな…)
ノートとパソコンを開いて作業を始めた。
しばらく集中していると、誰かが入ってくる気配があった。振り向くと、優吾が帰っていた。
『お帰り、遅かったね』
『ちょっとね。ごめん、ノート、俺が買えばよかったのに。行けた?』
『——うん』
ただ頷いた。やはり店員の言っていることがわからなかった、と伝えるには手が動かなかった。
すると、優吾は手に持っていたエコバッグから何かを取り出す。白い小さな箱だ。
『それ、何?』
何も言わず、僕に差し出す。
受け取ってみると、何やらネックレスのような紐の写真が載っている。先端には四角くて小さい機械が付いていて、上のほうには2つ、イヤホンみたいなものがある。
『開けてみて』
なにか分からないまま中身を取り出した。本体は黒色だ。
優吾は紐の部分を僕の首に掛け、イヤホンのようなものを耳に入れた。触ってみると紐のところはシリコンで出来ていて、柔らかい。
優吾が小さい機械のボタンを押した。
「聞こえる?」
そう声がした。確かに、聞こえる? と。
それはほかでもない、優吾の声だった。でも、そんなことはない。こんなにはっきりと、兄の声が聞こえるなんて。
補聴器をつけているときも、周りの声はまあまあ聞こえるが、これほど綺麗に聞こえたことはなかった。
『これ、どうなってるの?』
パニック状態で、手がもつれそうになる。
「骨伝導イヤホンっていうの。俺の声、聞こえてるでしょ?」
その声は、まっすぐに、僕の頭の中へ届いた。優吾はわかりやすいように、手話もつけてくれる。
『うん。とてもはっきり!』
表情が明るくなったのが、自分でもわかった。
「よかった」
優吾はいつもの笑顔でにっこりと笑む。
「あとね、それ、スマホも繋げられるの」
そう言い、自身のスマホを取り出して操作する。僕のイヤホンの機械のボタンを、ポチッと押す。
そして、「これ、俺らのバンドの新曲。大我にどうしても聴いてほしくて」
そのとき、音楽が流れてきた。よくわからないが、ピアノみたいな音が鳴っている。
『すごい! 音、聴こえる! すごい!』
「それね、『Imitation Rain』っていう曲。俺ギター弾いてるの。いい曲でしょ?」
音楽が鳴っていても、優吾の声が聞こえる。うん、と強くうなずいた。
『ありがとう!』
「どういたしまして。ちょっと早いけど、誕生日プレゼントでいいかな」
え、と声が漏れる。『本当?』
「うん。喜んでもらえて、俺も嬉しいよ」
その後も、スマホで優吾のバンドの曲をたくさん聴いた。課題のことも、コンビニでのことも忘れて。
どれもいい曲で、とても新鮮で、聴くのが楽しかった。
『聴く』という概念がそもそもない僕。
これが音楽なんだ、聴くことって楽しいな。初めて分かった気がした。
「ハマったようでよかったよ」
優吾は嬉しそうに、そう言った。
ねえ兄ちゃん、今度の兄ちゃんの誕生日は僕にプレゼントさせてよ。
一人で店に出かけて、自分で選んで買いたい。
兄ちゃんが、僕の耳を変えてくれたから。
終わり