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「キミがうちの総務課にいることは分かっていたし、後日声を掛けようと思っていたんだ」
だがその矢先、たまたま|天莉《あまり》本人と知り合う切っ掛けに恵まれて、〝このチャンスを逃したくない〟と強く希ってしまった。
「……今思えば、俺はキミに一目惚れしたんだと思う」
***
尽から、いきなりそんなことを告げられた天莉は、「うそ……」とつぶやかずにはいられなくて。
両親がすぐそこにいて、尽が目の前で語ったことを一緒に聞いていたのは分かっているのに……寿史と祥子がどんな反応をしているのか気に掛けられるゆとりすら、今の天莉にはなかった。
だって。
一目惚れをしたのは天莉の方で、自分には尽から好きになってもらえる要素なんて皆無だと……つい今し方再確認したばかりだったから。
(これは……夢?)
「でも……、常務……。私とのことは……」
――利害が一致するだけの関係だって……。
両親の前だということも忘れて、つい尽に〝常務〟と呼び掛けてしまったばかりか、裏事情まで口走りそうになった天莉だ。
尽は天莉のその言葉を封じるように、
「最初は確かに見た目に惹かれた。だが、今はキミの全てを愛しく思ってるよ?」
凛とした声音でそう言い放って。
尽のひざを占拠したバナナが、それに加勢するみたいにニャーン、と可愛く鳴いた。
***
「二人の馴れ初めは分かりました。ですが――先程からうちの子の様子を見ていると、まだ色々と手放しに喜べない気がするというのが正直な気持ちです」
母・祥子は、天莉の揺れる心を見逃さなかったらしい。
「なぁ天莉、元カレとはどのくらい付き合ってたんだ?」
祥子の言葉を受けて、寿史もグッと背筋を伸ばして天莉にそう問い掛けてきた。
「……? えっと……入社してすぐからだから……五年、だけど……」
「五年か。それでその男と別れたのは……お前の……誕生日という認識で合っているか?」
寿史の言葉に無言のままコクッとうなずいたら、祥子が「五年も付き合った彼女のお誕生日にそんな仕打ちをするなんて……ホント酷い男ね」とつぶやいて。
たった一言だったのに、母親から自分が言えなかった気持ちを代弁してもらえたことに、天莉の瞳にぶわりと涙がにじんできてしまう。
それを見た寿史が、眉根を寄せて辛そうに、
「なぁ天莉。わしらはお前の親だ。お前の性格は誰よりも熟知しているつもりだ。――別れてからまだ一ヶ月ちょっとしか経ってないみたいだし……現に、フラれた時のことを思い出すとまだそんな風に泣いてしまうんだろう? 高嶺さんの言葉を疑うわけじゃないが……実際の所、お前のような子が、そんなに簡単に気持ちを切り替えられるものなのか?」
そう問いかけてきた。
その言葉に天莉はグッと言葉に詰まって――。
思わず涙で泣き濡れた瞳のまま、助けを求めるようにすぐ隣へ座る尽に視線を投げかけた。
だが、尽はそこに関しては何も言うつもりはないらしく、そればかりか逆に重ねて聞いてくるのだ。
「それは俺も気になっていた。ねぇ天莉、もう一度ちゃんと聞かせて? キミは俺のこと、好き?」
と――。
眼鏡越し。
真剣な眼差しでじっと尽から見詰められた天莉は、涙が一気に引っ込むのを感じて。
「……好き」
そうして何も考える間もなく自然とそんな言葉が口を突いてしまって、自分自身驚いてしまう。
婚姻届にサインをした仲なのだ。
今更そんなことを確認し合うのはおかしいけれど、自分たちの関係は最初から普通じゃない。
天莉がそんなことを思ったのと同時。
尽が、まるで予想外の言葉をもらったと言う表情をして、息を呑んだのが分かった。
それを見た天莉は、即座に〝答えを間違えた〟と気が付いて。
尽を困らせない理由を付け加えるみたいに、両親へ話す体で慌てて言い募る。
「あ、あのね、お父さん、お母さん。確かに私、博視――、えっと……元カレにフラれたばかりでまだ傷が癒え切ってないところがあると思うの。実際、今みたいに何かのきっかけでポロッと泣いちゃって、自分でもどうしたら良いか分からなくなる時があるのも事実。常……尽と一緒にいても、つい彼を元カレとあれこれ比べてしまってることもしょっちゅうで……」
そこまで言ったら、父親が口を開きそうになったので、お願いだから最後まで言わせて欲しいと目で訴えた。
天莉の真意に気付いてくれた母・祥子が、すぐさま寿史の手に触れて父を制してくれて。
天莉は母親に〝有難う〟という気持ちを込めてコクッとうなずいた。
「だけどね、比べる度に気付かされるの。私が博視にどれだけ蔑ろにされていたか。じ、んが私のことをどれだけ大切にしてくれているか。尽は一番しんどい時に私のそばにいてくれて、支えてくれた。私、尽と一緒にいたら、味気なかったはずのご飯が美味しいって思えるの。……だからね、依存って言われたらそれまでかも知れないけれど。私、尽と一緒にいたい。彼のこと、もっともっと知っていきたい。それに、順番はアベコベかもしれないけれど、一日も早く博視よりも尽の方が何億倍も大好きだって……胸を張って言えるようになりたいの」
本当はもう、とっくの昔に天莉の中で尽は博視を越えている。
だけど――。
それを尽に気付かれたら駄目だと思って。
『偽装だと話したのに、本気で惚れるとか……キミは本当に重い女だね』などと思われたくない一心で、今はまだ、博視への気持ちの方が上なのだと、必死にアピールした天莉だ。
「――天莉。現状では元カレへの気持ちの方が、俺への気持ちより上ってことで合ってる?」
だから、尽が天莉の意図したところに気付いてそう問い掛けてくれた時、天莉は本心を押し殺して懸命にうなずいたのだ。
「そうか――」
だけど、尽がつぶやいたその声が、何故か心にズンと圧し掛かってくるように聞こえたのは気のせいだろうか?
思わず尽を見詰めた天莉に、だが次の瞬間、尽は信じられない行動に出て天莉を戸惑わせた。
***
「今日俺は、天莉さんとの結婚を許可して頂くつもりでここへ参りました。話の流れ次第では、こちらの書類の証人欄にサインを頂こうかとも――」
尽は、スーツの内ポケットから綺麗に折り畳んだ書類を取り出した。
折りたたまれたままの紙には、薄っすらと猫の模様が透けて見えて。
天莉はいま尽が手にしている書類は、課長に書かせたフェイクの方の紙片ではなく、証人欄が空欄のままになっている猫柄の婚姻届の方だと確信した。
(でも、今の話の流れでそれを取り出すのは、いくら何でも強引過ぎない?)
全ては、素直になり切れない――と言うより尽の偽装の恋人役を演じ切れない自分のせいなのだということを棚上げして、そんな懸念を抱いてしまった天莉だ。
「俺は……確かに最初は天莉さんの見た目を好きになりました。ですが一緒に過ごすうち、お嬢さんの内面にも強く惹かれている自分に気付かされたんです。正直天莉さん以上に愛せる女性とは、今後一生出会えないとも確信しています。なので……この婚姻届を天莉さんと二人で書いたとき、俺はとても嬉しかったんです。交際期間の長さなど関係なく、彼女も俺と同じ気持ちでいてくれると信じていましたので。ですが、どうやら俺の勘違いだったようです」
そこで一旦言葉を止めた尽は、手にしたままの婚姻届をビリッと真っ二つに引き裂いてしまった。
余りに躊躇いのないその動作に、天莉は思わず尽の方へ身を乗り出して。
「イヤ!」
言って、引き裂かれた紙片を持ったままの尽の手を、グッと握りしめた。
そんなことをしても後の祭りだというのは分かっている。
分かっているけれど、天莉はそうする以外に何も思い付けなかったのだ。
そんな天莉の迫力に驚いたのか、今まで頑なに尽のひざの上から退こうとしなかったバナナが、慌てたように飛びのいてしまう。