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だけど、そんなことにも頓着していられないくらい、天莉の心は千々にかき乱されていた――。
「私……私……」
自分のせいで|尽《じん》との結婚が――ひいては〝偽装の契約関係〟が御破算になってしまったと気が付いた天莉は、ショックで上手く言葉を紡げない。
尽は、そんな天莉をそっと抱き寄せると、天莉の耳元。静かな声音でそっと問いかけた。
「ねぇ天莉。お願いだからさっきの言葉は嘘だって言って?」
「さっきの……言葉?」
尽の懇願するようなバリトンボイスが、天莉の中へゆっくりと浸透してくる。
両親の目の前で尽に抱き締められていて……。
そんな二人のただならぬ空気感を、父母が何も口を挟めずに固唾を呑んで見守っていることにも気付けないまま。
天莉はつぶやくように尽の言葉を反芻した。
「俺への気持ちは……本当に横野以下?」
尽にそう付け加えられた天莉は、あの言葉が思いのほか尽を傷つけていたのだと、今更のように気付かされて。
「そんなわけ……ありません。私の中で常務は……もうとっくの昔に博視なんか足元にも及ばないくらい大切な存在になっています。……嘘をついてごめんなさい。傷つけてごめんなさい。私、ただ……不安だったんです」
「……そうか」
天莉はずっと、偽装の関係のはずの尽のことを本気で好きになってしまっただなんて、尽本人にだけはバレてはいけないと思っていた。
だけど――。
「……それを聞いて安心した。天莉、俺のことを大切だと言ってくれて有難う。俺も天莉のことを誰よりも大切な存在だと思ってるからね。それから……不安にさせてすまない。その辺もちゃんと払拭してもらえるよう頑張るから……俺のことを見捨てないで?」
不安にさせていることを謝罪してくれた上、そうさせないよう努めてくれるとまで言ってくれた尽の、心底ホッとしたような表情と柔らかな声音に、そう言うのは全て杞憂だったのかな?と思えて。
(見捨てられたくないのは私の方だよ……)
愚かな嘘をついた本当の理由は、両親の前では語れない。でも尽と二人きりになれたら、ちゃんと説明しよう。
天莉が尽の腕の中でそう思ったとき、ニャーンと鳴いて、バナナが二人の間へ割り込むようにして尽のひざの上へ戻ってきた。
バナナの強引さに思わず苦笑して、そこでハッとしたように天莉は今更ながら両親の存在を思い出す。
「あ、あの……常務……」
恥ずかしさに懸命に尽の腕から逃れようと手を突っ張ったら――。
「ねえ俺の可愛い子猫ちゃん。さっきから俺のこと、言いつけ通り名前で呼べてないの、気付いてる?」
尽がギュッと腕に力を込めて天莉の耳に唇が掠めるくらいの至近距離で言葉を吹き込んでくる。
それはきっと、天莉だけに聞こえるくらいの囁きだったのだけれど。
「帰ったらお仕置きだね」
ククッと笑って、真っ赤になって耳を押さえた天莉を解放すると、尽は何でもなかったように居住まいを正した。
***
「ご両親の前で、少々暴走してしまいました。申し訳ありません」
そのまま素直に謝罪の言葉を述べて深々と頭を下げた尽に、
「あ、いや、それは――」
寿史がソワソワと瞳を揺らして。
きっと、寿史の世代には人前で恋人を抱きしめると言う発想自体がないのだろう。
何と答えたらいいのか戸惑っている様子の頼りない旦那に代わって、祥子が口を開いた。
「少々驚きましたが、どうやら娘の本心が引き出せたようで安心しました」
至極冷静な凛としたその様子は、ホテル前で車窓越しに見かけた天莉とどこか似ていて。
尽は、祥子の言葉にゆっくりとうなずきながら、自分が惹かれた、天莉のここぞという時の力強さはきっとこの母親似なのだな……と思った。
***
帰り際。
玄関で別れを告げた尽と天莉に、
「そうだ! 高嶺さんが持って来てくれたどら焼き、折角だからちょっと持って帰らない?」
すっかり尽と打ち解けた様子の母・祥子が、パチンと両手を打ちながら、
「帰りの車の中で食べたらいいわ」
さも名案だとばかりに気安い感じでそう持ち掛けてくる。
だが、同じものが家にも買ってあったので、『うちにもあるし、二人で食べて?』と天莉が言おうとしたら、それより少しだけ先に尽が口を開いた。
「大変魅力的なお申し出ですが、あのどら焼きには結構ふんだんにラム酒が使われていますので……」
心底残念そうに眉根を寄せて、今から運転する自分が食べるのは難ありだと言外に含ませる。
実は尽から、相手側が気を遣って自分たちに持参した菓子折りを持たせたりしてくれるのを防ぎたい時に、酒入りの菓子を選択したりする、と聞かされていた天莉だ。
「天莉だけもらったら?」
なので、そこでふと思いついたように眼鏡越し、試すような視線を投げかけられた天莉は、尽が自分の性格を熟知していてそんなことを言ってきたんだろうなと思って。
「私だけ食べても美味しいねって話せなくて寂しいから遠慮しとく。食べるんなら常……じ、んと一緒に、がいい」
言って、天莉は先程言いそびれた言葉を付け加えた。
「実はね、お母さん。尽が……うちにも一箱、同じものを買って来てくれてるの」
知らず知らず、一緒に住んでいることを匂わせるような発言をしてしまった天莉だったけれど、幸い尽が一人密かにほくそ笑んだだけで両親には気付かれなかった。
「それがあるから大丈夫だよ?」と微笑んだ天莉に、「そーお? だったら六個全部、お父さんと食べちゃおうかしら〜♪」と祥子が笑って。
すかさず今まで黙って立っていた父・寿史が、「わしは最近太り気味だからお前が四つ食え」とか恐ろしいことを言ってくる。
「嫌ですよぅ。私も最近ちょっとヤバイんですから。食べる時は仲良く三個ずつ食べて、一緒に太るんです。一蓮托生ですよ」
二人とも甘いものが大好きで、どら焼きなんて数個一気にぺろりと食べられることを知っている天莉だ。
「だったら一個ずつ天城んところにあげて、残り四つは食べたあと、二人でウォーキングとかしたらいいんじゃない?」
天莉の言葉に、二人が顔を見合わせて。
「それは名案ね」とつぶやいた祥子に、「食べたあと、散歩がてら天城の所へ歩いて持って行くのも悪くないな」と寿史が同調する。
「一石二鳥ね」
そんなことを話しながら笑い合う二人を見詰めて、天莉は自分も尽とこんな夫婦になれたらいいなと思って、自然と笑みがこぼれた。
そんな天莉の耳元へ、スッと身を屈ませた尽が「俺たちも食べた後、一緒に運動しようね? 何せうちのは人にあげられる宛もないから。しっかり運動しないとカロリーがヤバそうだ」と小声で吹き込んでくる。
「えっ?」
とつぶやいた天莉に、
「ほら。俺たちの方はお仕置きがてらで一石二鳥だ」
更に声を低めて囁いて、ククッと楽し気な笑い声を残して身体を起こした尽に、天莉は思わず耳を押さえて長身の彼を睨み付けずにはいられない。
結局苦肉の策。「そうだっ。伊藤家に三つあげたらいいんじゃないかしら⁉︎」と持ち掛けた提案は、「俺がいつも世話になってる直樹にあげてないと思うかね?」という言葉で呆気なく封じられてしまった。
天莉は嬉しそうに自分を見下ろしてくる尽から視線を逸らしながら、(お仕置きって……一体何をなさるおつもりですかーっ!?)と、心の中で叫んだ。