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「古川くん、一緒にランチに行かない?」
仕事に集中していると、声をかけながら肩に触れてきた手に驚き、躰をぎゅっと竦ませた。
「ぁ、あの、僕と?」
「そうだよ。近くにオススメのレストランがあるんだ。一緒に行ってみたいなと思って」
社内コンペに準優勝してから、女性からのこうしたお誘いが日常化していた。以前の部署にいたままなら、絶対にありえないことである。
「すみません。今日は、役員の方に誘われているので行けないです」
「だったら、また誘ってもいい?」
「はい、ごめんなさい」
最初のうちは誘われたら断ることなく、黙って連れられていた。一緒に食事をしたり喋ったりすること自体、敦士に苦痛はなかったが、ただそれだけ。妙に冷めた会話ばかりを繰り返した。
(以前の僕なら、このまま付き合うことを視野に入れてドキドキしたり、脱童貞できるかもしれないなんて、下心丸出しだったはずなのに――)
今や事務的な付き合いにうんざりして、平気な顔で嘘をつくようになってしまった。
名残惜しそうに去って行く、女子社員の背中を横目で見ながら、右手で胸元を押さえる。わけもわからずに大泣きしてしまった、あの日の夜。あれから敦士の心の中にある大事なものが、空っぽになっていることに気がついた。
感情がなくなったわけではない。今のように嘘をついた罪悪感が敦士の中にきちんとあって、現在申し訳ない気持ちになっていた。
他にも、魅力的だと思うような女性に迫られても、今までのように胸のときめきを感じたり、自分から積極的にアタックする気力が、まったくもって湧かなかった。
そんなことに寂しさを感じたりしていると、どこからともなく男の声が、時々頭の中に聞こえてきた。
『敦士、このままなにもせずに諦めるのか? 毎年チャレンジしているんだろう?』
聞き覚えのない男性の声――この言葉はいったい、いつかけられたものだろう?
『敦士、大丈夫なのか?』
名前を呼びながら心配する声色は、自分の躰をとても気にしているように伝わった。
『よく頑張ったな、偉かった』
笑いながら褒めてくれたみたいな、優しい声だった。なにをして褒められたのかはわからないけれど、それでもこの言葉を思い出すだけで、どんなことでも頑張れる気がした。
『心を許したのは、お前だけだ!!』
目を閉じながら、男性のことを思い出そうとしてみても、昏い脳内に消え失せそうな青白い光しか、浮かんでこなかった。まるで、幽霊みたいな感じの印象が残る。
しかも考えれば考えるほどにつらくて切ないのに、その切なさはいつの間にか敦士の心をすり抜けて、泡のようにすぐになくなってしまった。
自分自身の感情のなさに呆れながら、やりかけのパソコンの仕事をバックアップしたのちに、電源を落とす。真っ暗な画面に、ぼんやりと顔が映り込む。
やりがいのある仕事をしているのに、どこか面白くなさそうな顔をしている自分に向かって、無意味に微笑みかけた。それは笑っているのに、泣き出しそうなものにも見える。
頭を振って唇に湛えた笑みを消し去り、勢いよく椅子から立ち上がった。ランチを断った女子社員に見つからないように出かけて、お昼を調達しなければならない。
頭の中でそのことを考えているのに、立ち上がったままの状態から、動くことができない。金縛りとは違う反射的な躰の反応に、またしても敦士の中でクエスチョンが増える。
(――僕はいったい、誰のことを待っているんだろう?)
なにも感じない心を抱えているのに、誰かを待っている気がして、どうしても動く気になれなかった。
誰かと待ち合わせをした記憶は、まったくない。それなのに今ここを動いてしまったら、二度と逢いたい人に逢えなくなる感覚に、敦士は囚われたのだった。