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猫さん
2
戦うより面白い方法を思いついた顔だった。
「では決まりじゃな」
少女はくるりと踵を返す。
「お主らはそのまま進め」
「お前は?」
俺が聞く。
少女は赤い瞳を細めた。
「少しばかり仕込みをしてくる」
その笑みが妙に怖い。
ルカも同じことを思ったらしい。
「……よつむ」
「なんだ」
「追手の人達かわいそう」
珍しく同意だった。
少女は聞こえていたらしく鼻を鳴らす。
「安心せい」
全然安心できない前置きだった。
「死にはせぬ」
なお悪い。
少女はそれだけ言い残すと森の中へ消えていった。
驚くほど速い。
数秒後には気配すら分からなくなっていた。
「すごいですね」
しゆらがぽつりと言う。
「森に慣れてる」
俺も頷く。
あれは単純な身体能力だけじゃない。
森そのものを知り尽くしている動きだった。
夜哭きの森の者。
その言葉に嘘はないらしい。
「じゃあボク達は?」
ルカが聞く。
「言われた通り進む」
「大丈夫かな」
「大丈夫じゃなかったら今更だ」
それもそうか、とルカが苦笑した。
子供達をまとめながら森の奥へ進む。
やがて木々の間に白い靄が見え始めた。
最初は薄かった。
朝霧みたいなものかと思った。
だが。
進むにつれて濃くなる。
地面を這うように流れ。
木々の根元を隠し。
視界の端をぼんやりと曇らせていく。
「これが?」
しゆらが呟く。
「たぶんな」
不思議な霧だった。
ただの水蒸気には見えない。
どこか生き物みたいに動いている。
その時。
遠くから声が聞こえた。
「いたか!?」
誰かが叫んでいる。
男の声だった。
ルカが振り返る。
「近い?」
「いや」
俺は首を振る。
近いはずなのに。
妙に遠い。
距離感がおかしい。
声だけが森を彷徨っているみたいだった。
その直後。
別の方向から声が響く。
「こっちだ!」
「違う!」
「さっきもそこ通ったぞ!」
子供達が顔を見合わせる。
俺も少しだけ眉をひそめた。
同じ場所を回っている。
そう理解した。
そして。
しゆらがぽつりと呟く。
「もう迷ってますね」
「ああ」
思ったより早かった。
その時だった。
森の奥から。
少女の笑い声が聞こえた気がした。
本当に聞こえたのかは分からない。
だが。
間違いなく楽しんでいる。
「……」
「……」
「……」
ルカが小さく呟く。
「やっぱりかわいそう」
誰も否定できなかった。
一方その頃。
霧の中では。
「おい!」
「なんで戻ってくるんだ!」
「知らん!」
「お前が先頭だろうが!」
「さっきの木だぞ!」
「だから違うと言ってるだろ!」
四人の男達が同じ場所を三周していた。
そしてその少し先。
木の上では。
赤い瞳の少女が足をぶらぶらさせながら見下ろしている。
「ほれ」
誰にも聞こえない声で呟く。
「もっと右じゃ」
男達が右へ進む。
数分後。
また同じ場所へ戻る。
少女は吹き出した。
「阿呆じゃのう」
少女――いや、あの半魔は心底楽しそうだった。
木の枝へ腰掛けながら、霧の中を右往左往する男達を見下ろしている。
男達は気付いていない。
いや、気付けない。
夜哭きの森の霧は視界を遮るだけのものではないのだろう。
方向感覚そのものを狂わせる。
目印に刻んだ木へ辿り着いたと思えば、次の瞬間には見覚えのない場所へ出る。
真っ直ぐ歩いているつもりなのに、気付けば元の場所へ戻っている。
そんなことを繰り返しているらしかった。
「待て……」
「おかしいだろ……」
「さっきもこの岩を見たぞ……」
男達の声には焦りが滲み始めていた。
最初は苛立ちだった。
次は困惑。
そして今は恐怖へ変わり始めている。
見知らぬ森で道に迷う。
それだけならまだいい。
だが、自分が迷っていることすら分からなくなるのは別だ。
人間は理解できないものを恐れる。
少女はそれをよく知っているらしい。
枝の上で足を揺らしながら、まるで子供が虫を観察するように男達を眺めていた。
その頃。
俺達は霧の中をゆっくり進んでいた。
不思議なことに歩きにくさは感じない。
視界は悪いはずなのに、足が自然と進む。
まるで霧の方が道を空けているみたいだった。
「変ですね」
しゆらが小さく呟く。
白い靄の向こうを見つめながら首を傾げていた。
「何がだ」
「私達は迷わないんですね」
言われてみればその通りだった。
後ろを振り返れば何も見えない。
前を見ても似たような景色ばかりだ。
それなのに不思議と不安はない。
どちらへ進むべきか、何となく分かる。
「案内されてるんじゃない?」
ルカが言った。
「案内?」
「ほら」
ルカが指差す。
霧だった。
いや、正確には霧の流れだ。
風もないのに白い靄がゆっくり動いている。
進む方向へ。
まるで誘導するように。
「……なるほどな」
夜哭きの森。
ただ霧が濃いだけの森ではないらしい。
あの半魔が誇らしそうな顔をした理由が少し分かった。
森そのものが生きているみたいだった。
その時。
前を歩いていた子供の一人が声を上げる。
「あ」
全員の視線が向く。
子供は少し先を指差していた。
霧の向こう。
木々の隙間。
何かが見える。
最初は影だった。
だが近付くにつれて形になる。
柵。
見張り台。
木造の建物。
人の手で作られた痕跡だった。
研究所とも人間の街とも違う。
もっと素朴で。
もっと荒々しい。
森の一部をそのまま利用して作ったような集落。
誰かが小さく息を呑む。
ルカも目を丸くしていた。
「ここが……」
夜哭きの森の集落が見えた時、最初に声を上げたのは子供達だった。
森へ入ってからずっと歩き続けていたのだ。高い柵と木造の建物が見えた瞬間、その顔に安堵が浮かぶのも無理はない。
「家だ」
誰かが呟く。
本当に家になるかどうかはまだ分からない。それでも屋根があり、人の気配があり、温かい食事がありそうな場所を見た瞬間、子供達の足取りは少しだけ軽くなった。
ルカも同じだった。
耳をぴくぴく動かしながら集落を眺めている。
だが、そんな空気は長く続かなかった。
見張り台にいた半魔がこちらを見た瞬間、その表情が固まったのだ。
最初は子供達を見ていた。
次にルカを見る。
そして最後に俺を見る。
数秒の沈黙。
風だけが木々を揺らしていた。
「……人間?」
信じられないものを見るような声だった。
だが次の瞬間、その男は身を乗り出した。
「人間だ!」
怒鳴り声が森へ響く。
途端に集落がざわついた。
閉じられていた扉が開く。窓から人影が覗く。武器を手にした半魔達が次々と姿を現し、こちらへ警戒の視線を向けた。
その空気の変化を感じ取ったのだろう。
さっきまで騒いでいた子供達も静かになる。
自然と集まり、互いの服を掴む。
研究所が燃えた夜を思い出したのかもしれない。
俺はそんな子供達を見ながら小さく息を吐いた。
歓迎されるとは思っていなかった。
人間がここにいる理由などないのだから。
その時だった。
「騒ぐでない」
聞き慣れた声が響く。
住人達の間を割るようにして、あの少女が姿を現した。
肩には大きな魔獣が担がれている。
どうやら追手を迷わせたあと、本当に狩りまで済ませてきたらしい。
「おい!」
見張りの男が叫ぶ。
「どういうことだ!」
「何がじゃ」
「何がじゃじゃない! なんで人間を連れてきてるんだ!」
周囲からも同じような声が上がる。
当然だった。
人間は敵だ。
少なくとも夜哭きの森に住む者達にとっては。
少女は盛大にため息を吐いた。
そして肩の魔獣を地面へ放り投げる。
重い音が響いた。
「まず飯じゃ」
「話を逸らすな!」
「逸らしておらぬ」
少女は真顔だった。
そのまま子供達を指差す。
「見ろ」
住人達の視線が向く。
そこでようやく気付いたのだろう。
痩せた身体。
煤で汚れた服。
疲れ切った顔。
さらに後ろには傷だらけのシエルまでいる。
ざわめきが少し弱まった。
「何があった」
今度は怒鳴り声ではなかった。
少女もふざけるのをやめる。
「研究所が潰された」
その一言で空気が変わった。
住人達の表情が硬くなる。
「地下も燃えた」
誰も口を開かない。
「こやつらは生き残りじゃ」
短い説明だった。
だが十分だった。
住人達の顔に浮かぶのは驚きだった。
研究所。
半魔なら誰でも知っている名前だ。
そこが消えた。
その事実だけでも衝撃は大きい。
しかし問題はまだ残っていた。
視線が再び俺へ向く。
誰かが低い声で言った。
「じゃああいつは何だ」
空気が張り詰める。
少女は露骨に嫌そうな顔になった。
本当に嫌そうだった。
「儂もそこが解せぬ」
何人かが思わず吹き出す。
だが少女は真面目だった。
「予紬という。研究所の研究者じゃ」
笑いが消えた。
今度こそ完全な沈黙が落ちる。
敵意が生まれるのが分かった。
研究所によって家族を失った者もいるだろう。
実験台にされた者もいるかもしれない。
その視線を受けながら、俺は何も言わなかった。
言い訳をする気もなかった。
だが。
「子供を守った」
少女が続ける。
住人達が顔を上げる。
「魔獣も守った」
赤い瞳が細くなる。
「儂も意味が分からぬ」
本音だった。
だから妙な説得力があった。
「じゃが、こやつがおらねばこやつらはここへ来れんかった」
その言葉に住人達は黙り込んだ。
納得したわけではない。
だが反論もできない。
そんな空気だった。
「うるさい」
低い声が響く。
大声ではなかった。
それなのに、ざわついていた集落が一瞬で静まり返る。
住人達が自然と道を開いた。
一人の男が歩いてくる。
大柄だった。
武器も持っていない。
威圧しているわけでもない。
それでも誰も逆らわない。
男はまず子供達を見る。
一人一人を確認するように。
次にシエルを見る。
そして最後に俺を見る。
その視線には敵意も憎しみもなかった。
ただ見ている。
事実を。
状況を。
そこにいる全員を。
やがて男は少女へ視線を向けた。
「飯はあるか」
「獲ってきた」
少女が足元の魔獣を指差す。
男は頷く。
それだけだった。
そして周囲を見回す。
「先に食わせろ」
短い一言だった。
だが、その瞬間止まっていた集落が動き出す。
火を起こす者。
水を運ぶ者。
肉を解体する者。
張り詰めていた空気が少しずつほどけていく。
男はその様子を確認すると、初めて俺へ視線を向けた。
「話はその後だ」
それだけ言って子供達の方へ歩いていく。
少女はその背中を見送りながら小さく肩を竦めた。
「助かったの」
「偉い人なのか」
俺が聞く。
少女は少しだけ考え、それから鼻を鳴らした。
「偉いかどうかは知らぬ」
そう言いながらも、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「あやつがおるから、この森はまだ森でいられる」
その言葉だけで十分だった。
コメント
1件
うわ、今回も良かったですね。特にあの半魔の少女、追手を迷わせるだけで♡♡♡ないところがいいなと思いました。ちゃんと「死にはせぬ」って言うんですよ。冷酷じゃないんだなって。あと集落に着いてからの空気の張り詰め方、すごく伝わってきました。子供達が研究所の夜を思い出して縮こまる描写、自然で胸が痛みました。でもあのリーダーらしき男が「先に食わせろ」って一言で全部動かすところ、めちゃくちゃかっこよかったです。森の掟みたいなものを感じる瞬間でした。