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「あやつがおるから、この森はまだ森でいられる」
少女はそう言ったきり、それ以上は説明しなかった。
だが、その声には不思議な信頼が滲んでいた。
夜哭きの森へ来てから初めて見る表情だった。
集落の中央では、すでに大人達が獲物の解体を始めている。
血の匂い。
焼ける肉の匂い。
久しぶりのまともな食事に、子供達の視線は完全に釘付けだった。
「肉まだ?」
隣でルカが聞く。
「まだだ」
「まだ?」
「まだだ」
ルカは数秒黙った。
真剣な顔で肉を見つめる。
それから。
「……お腹空いた」
「知ってる」
「肉の匂いする」
「してるな」
「つらい」
予紬は思わず口元を押さえた。
隣を見ると、しゆらも少しだけ笑っている。
「ルカ」
「なに」
「耳が肉の方を向いてます」
「向くでしょ」
即答だった。
「お腹空いてるんだから」
反論になっていない。
だが誰も否定できなかった。
子供達も似たような状態だった。
肉が焼けるたびに視線が集まる。
腹の虫が鳴る。
研究所が燃えてからろくに食べていないのだ。
無理もない。
その時だった。
小さな女の子がしゆらの服を引っ張った。
「ねぇ」
「はい」
しゆらがしゃがみ込む。
女の子はこっそり少女を指差した。
「お姉ちゃん怒ってる?」
しゆらが視線を向ける。
少女は住人達と何か話していた。
相変わらず不機嫌そうな顔で。
しゆらは少し考える。
そして。
「たぶん普通です」
「普通なんだ……」
女の子は衝撃を受けた顔になった。
近くにいた別の子が言う。
「でも綺麗」
少女の肩がぴくりと動く。
聞こえたらしい。
「髪も綺麗」
「目も綺麗」
「かわいい」
「角かっこいい」
「人形みたい」
子供達が好き勝手に言い始める。
少女が固まった。
完全に固まった。
住人達まで静かになる。
予紬は慌てて顔を逸らした。
笑ったらたぶん怒られる。
だが無理だった。
ルカが先に吹き出している。
「顔真っ赤」
「黙れ」
「真っ赤」
「黙れと言っておるじゃろう!」
少女が本気で怒鳴る。
だが子供達は全く怖がらない。
むしろ面白がっていた。
研究所でもそうだった。
子供は相手が本当に危険かどうかを妙なところで見抜く。
だからこそ。
この少女が怒鳴っても近付いていく。
一人の男の子など、平然と少女の角へ手を伸ばしていた。
「ほんとだ」
「触るでない!」
「つるつる」
「やめぬか!」
完全に玩具扱いだった。
住人達が呆然としている。
たぶんこんな光景は見たことがないのだろう。
少女は怒っている。
だが。
本気で振り払おうとはしない。
嫌そうな顔をしながらも、ちゃんと加減している。
しゆらはそんな様子を見ていた。
そして小さく笑う。
「優しいんですね」
少女が固まる。
二度目だった。
今度は耳まで赤い。
「どこがじゃ」
「子供達を叩かないので」
「当たり前じゃ」
「そういうところです」
少女は言葉に詰まった。
予紬は思わず吹き出す。
少女の視線が飛んでくる。
「お主まで笑うな」
「笑ってない」
「嘘じゃ」
完全に見抜かれていた。
その時。
森の奥から風が吹いた。
白い霧が流れ込んでくる。
先程まで集落の外を漂っていた霧とは違う。
もっと濃い。
もっと静かだった。
まるで意志を持っているみたいに木々の間を縫いながら集落へ近付いてくる。
住人達は誰も驚かない。
警戒もしない。
むしろ帰りを待っていたような空気だった。
「帰ってきた」
誰かが呟く。
霧の中から人影が現れる。
小柄な人物だった。
白い髪。
淡い灰色の瞳。
年齢も性別も分かりにくい顔立ち。
その人物が集落へ入った瞬間、不思議なことが起きた。
周囲の魔獣達が一斉に近付いていったのだ。
森狼。
角鹿。
見たこともない鳥型の魔獣。
どれも警戒心の強そうな個体ばかりだったが、その人物の周囲へ自然と集まっていく。
まるで主人の帰りを待っていたみたいに。
「おかえり」
「お疲れ様」
住人達も次々と声を掛ける。
その人物は軽く手を振るだけだった。
だが、その雰囲気には不思議な安心感があった。
そして。
その視線が予紬へ向く。
周囲が少しだけ静かになる。
人間だからだろう。
だが、その人物は何も言わなかった。
代わりにシエルへ近付く。
傷だらけの身体。
小さくなった姿。
枯渇した魔力。
それらを静かに見つめたあと、しゃがみ込んで額へ手を添えた。
シエルが目を開く。
警戒はしない。
むしろ安心したように喉を鳴らした。
「頑張ったね」
優しい声だった。
その声を聞いた瞬間、シエルの身体から力が抜ける。
しゆらもほっとしたように息を吐いた。
ここへ来るまで、ずっと抱えていたのだ。
途中で何度も呼吸を確かめながら。
その人物は傷口を見る。
固定具を見る。
包帯を見る。
そして予紬を見る。
「君がやったの?」
予紬は頷く。
「応急処置だけだ」
「綺麗だ」
予紬は少し驚いた。
褒められるとは思っていなかった。
その人物は再びシエルを見る。
「この子、君のこと信頼してるね」
「そうか?」
「うん」
迷いのない返事だった。
シエルは眠そうな目のまま予紬を見ている。
しばらくして。
弱々しく尻尾を動かした。
それを見ていた住人達の空気が少し変わる。
魔獣は嘘をつかない。
敵には懐かない。
だからこそ。
その反応には意味があった。
「敵なら」
その人物は静かに言った。
シエルの頭を撫でながら。
「ここまでしない」
周囲が静かになる。
研究者。
人間。
それだけで判断していた者達もいる。
だが。
シエルの反応は違った。
しゆらは少しだけ嬉しそうだった。
まるで自分が褒められたみたいに。
予紬はそれに気付いて苦笑する。
「なんですか」
「いや」
「なんです」
「別に」
しゆらが少しだけ頬を膨らませた。
その様子を見ていた少女が呆れたようにため息を吐く。
「だから解せぬのじゃ」
本日何度目かも分からないその言葉に、周囲から小さな笑いが漏れた。
研究所から逃げてきた子供達も。
夜哭きの森の住人達も。
少しずつ肩の力が抜け始めている。
研究所が燃えた話をしたばかりだというのに、不思議な空気だった。
誰かが泣いているわけでもない。
誰かが怒鳴っているわけでもない。
ただ肉の焼ける匂いが漂い、人の話し声が聞こえ、子供達が騒いでいる。
それだけだった。
それだけなのに。
胸の奥に張り付いていた重苦しさが、ほんの少しだけ薄れている気がした。
「そういえば」
不意に、一人の子供が首を傾げる。
「お姉ちゃん名前は?」
少女の動きが止まった。
本当に止まった。
焚き火の明かりに照らされた横顔が固まる。
周囲も一瞬だけ静かになる。
そういえば聞いていない。
ここまで一緒に行動してきた。
命まで助けられた。
それなのに名前を知らない。
「確かに」
ルカも頷く。
「ボクも知らない」
少女は露骨に視線を逸らした。
聞こえなかったふりをするつもりらしい。
だが子供達はそんなことで諦めない。
「名前!」
「教えて!」
「なんていうの?」
気付けば周囲を囲まれていた。
少女は眉間を押さえる。
本気で面倒そうだった。
「必要ないじゃろ」
「ある!」
即答だった。
しかも一人じゃない。
全員だった。
研究所でもそうだったが、子供という生き物は一度興味を持つとしつこい。
妙なところで諦めが悪い。
「教えてよ」
「お姉ちゃんの名前!」
「絶対かわいい名前だと思う!」
少女の肩がぴくりと揺れた。
その反応を見て、子供達の勢いがさらに増す。
完全に玩具を見つけた時の顔だった。
「私も気になります」
しゆらまで追撃する。
少女がぎろりと睨む。
「お主まで言うのか」
「気になります」
「気にするな」
「気になります」
一歩も引かない。
しゆらは昔からこうだった。
興味を持ったことは最後まで聞く。
悪気はない。
純粋に気になるだけだ。
だから厄介だった。
少女もそれを察したのか、大きく息を吐いた。
それでもすぐには答えない。
焚き火を見たり。
肉を焼いている住人達を見たり。
明後日の方向を見たり。
露骨に時間を稼いでいる。
だが囲まれている以上、逃げ道はない。
やがて観念したように肩を落とした。
「……別に大した名前ではないぞ」
「うん」
「大丈夫!」
「早く!」
何一つ大丈夫ではなかった。
少女はさらに嫌そうな顔になる。
それでも数秒黙り込んだあと、小さく口を開く。
「千代じゃ」
静かな声だった。
いつものような強気な言い方ではない。
ただ事実を告げるだけの声。
だからだろうか。
一瞬だけ周囲が静かになった。
そして。
「かわいい」
誰かが呟いた。
終わった。
そう思った。
案の定だった。
「千代!」
「かわいい名前!」
「似合ってる!」
「綺麗!」
「呼びやすい!」
子供達が一斉に騒ぎ始める。
千代は両手で顔を覆った。
耳まで真っ赤だった。
さっきまで人間相手に啖呵を切っていた半魔とは思えない。
「だから言ったじゃろ……」
ぼそりと漏れた声には覇気がなかった。
完全に負けている。
ルカは腹を抱えて笑っていた。
「顔真っ赤」
「黙れ」
「真っ赤」
「黙れと言っておるじゃろう!」
怒鳴っているのに全く怖くない。
むしろ子供達は面白がっていた。
そんな中。
しゆらが小さく笑う。
「いい名前ですね」
その瞬間だった。
千代の表情が変わる。
赤くなっていた顔とは別の反応だった。
驚いたような。
困ったような。
ほんの一瞬だけそんな顔になる。
だがすぐに視線を逸らした。
「……普通じゃ」
「そんなことないです」
しゆらは首を横に振る。
「大事にされてきた名前って感じがします」
千代が何も言わなくなる。
子供達も一瞬だけ静かになった。
焚き火の薪がぱちりと音を立てる。
しばらくして。
千代は小さく鼻を鳴らした。
「お主は変なところばかり見ておるの」
声はいつも通りだった。
だが少しだけ弱かった。
しゆらは首を傾げる。
「そうですか?」
「そうじゃ」
「でも本当です」
「解せぬ」
心底困ったような声だった。
その様子を見ていた子供達がまた笑い出す。
「千代お姉ちゃん!」
「千代!」
「こっち来て!」
「角触っていい?」
「よくない!」
即答だった。
だが結局、そのあとも子供達は千代の周りから離れなかった。
本人は嫌そうな顔をしている。
それでも追い払おうとはしない。
気付けば小さな子供が千代の腕にぶら下がり、別の子供が隣へ座り込んでいた。
千代は盛大にため息を吐く。
だが。
本当に嫌なら振り払っているはずだ。
そうしない時点で答えは分かりきっていた。
「だから解せぬのじゃ……」
その呟きに。
今度はしゆらまで笑っていた。
コメント
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ああ、この回、すごく良かったです……。千代の名前が「千代」って知れた瞬間、なんだかすごくじんときました。あの強気な口調とのギャップがまた愛おしくて。「大事にされてきた名前」ってしゆらが言った言葉、まさにその通りだなって思いました。子供たちに囲まれて、顔真っ赤にして「だから解せぬのじゃ……」って呟く千代がもう本当に可愛くて。それでいて加減してる優しさがにじんでて……。白い髪の人物の登場も雰囲気があって、続きが気になります。