テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
M_Yuzu
636
左手に海を臨む山沿いの道を、一台の車が走っていく。
窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。降り注ぐ陽光を反射してきらきらと輝く海と、鮮やかな山の緑。その境を縫うように続くカーブの先へ、白い飛行機雲が一筋、どこまでも伸びている。
軽快な音楽が流れる車内で、ハンドルを握っているのは岩本。その隣、助手席には阿部が座っている。
念願叶ったダイビング旅行の帰路だった。
「このロケーション、最高じゃない?」
アイスキャンディーを齧りながら、阿部が窓の外を眺める。潮風を取り込むために少し開けた窓から、潮の匂いと湿った風が入り込み、阿部の柔らかな髪を揺らした。
「絵になるね」
岩本がそう返すと、阿部は目を細めて景色を見つめた。
「また来よう」
何気ない口調で告げた言葉に、阿部がこちらを向く。
「そうだね」
嬉しそうに微笑むその横顔を、岩本は一瞬だけ盗み見た。
それからしばらく、二人は他愛のない会話を続けた。
海の中で見つけた魚のこと、昼に立ち寄った店の料理のこと、次に潜るならどこがいいか。カーステレオから知っている曲が流れれば、どちらからともなく口ずさみ、サビだけ声を重ねた。
けれど、いつしか阿部の返事が途切れがちになってきた。
岩本が話しかけても、ひと呼吸、ふた呼吸遅れて返ってくる。返事そのものも、次第に短くなっていた。
「阿部、眠いの?」
前方に目を向けたまま、ちらりと助手席をうかがう。
「大丈夫」
阿部はそう答えたものの、その声は輪郭が溶けたように柔らかく、明らかに眠気を含んでいた。
「寝ていいよ」
「ん……でも、ひかるに悪いから……」
ふわふわとした口調で返しながら、阿部は眠気を振り払うように何度か瞬きをする。運転を任せて自分だけ眠るのは申し訳ないと、どうにか起きていようとしているのだろう。
そういうところが、阿部らしい。
律儀で、気遣い屋で。そんな優しさに触れるたび、岩本の胸の奥には温かなものが灯り、それと同時に、少しだけ苦しくなる。
カーステレオのボリュームをそっと絞る。
それから岩本は話しかけるのをやめ、静かに車を走らせた。
三つ目のカーブを曲がった頃、再び助手席をうかがう。
阿部はとうとう睡魔に負け、静かな寝息を立てていた。
眠くなるのも無理はない。朝から海に潜り、たっぷり身体を動かした。昼食も腹いっぱい食べたうえ、車内には心地よい音楽と振動がある。これだけ条件が揃えば、誰だって眠くなるだろう。
赤信号で車を停め、岩本は改めて阿部を見た。
身体を右側へわずかに傾け、口を少し開けて眠っている。頬にかかった髪が、呼吸のたびにかすかに揺れていた。あまりにも無防備な寝顔に、思わず口元が緩む。
「かわい……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと零れた。
これが車ではなく電車だったなら、今頃は自分の肩にもたれかかってくれていただろうか。
そんなことを考えてしまう自分が、少し可笑しくて、ひどく切なかった。
信号が青に変わる。
岩本はアクセルを踏み込みながら、小さく息を吐いた。
長い間、苦楽を共にしてきた阿部のことを、岩本は当然のように好きだった。
仲間として。大切なメンバーとして。
けれど、いつからだったのだろう。
その好意はいつの間にか形を変え、名前のつけようがないほど特別なものになっていた。
それに気づいた時、岩本はひどく動揺した。
認めてしまえば、何かが変わってしまう気がした。だから見ないふりをして、これは仲間への情なのだと何度も言い聞かせた。
けれど、気持ちは抑えようとするほど膨らんでいった。
阿部が笑えば嬉しくて、誰かと親しげにしていれば胸がざわつく。近くにいたい。触れたい。自分だけを見てほしい。
そう願ってしまう時点で、もう否定などできなかった。
それでも、この想いを表に出すつもりはなかった。
誰かに相談する気もない。
そばにいられる今のままで満足しよう。仲間として隣に立てるなら、それで充分だ。自分なら、きっとそうしていられる。
ずっと、そう思っていた。
けれど、人の欲には際限がないらしい。
そばにいられるだけでよかったはずなのに、もっと近くへ行きたくなる。名前を呼ばれるたびに、自分だけに向けられた特別な響きを探してしまう。
こんなにも近くにいるのに告げることのできない想いは、胸の内側を満たし、今にも溢れ出してしまいそうだった。
車がヘアピンカーブへ差しかかる。
ハンドルを切ると、阿部の身体がぐらりと運転席側へ傾いた。膝の上に置かれていた右手が滑り落ち、二人の間へ無防備に投げ出される。
前を走る車に追いつき、岩本はゆっくりと速度を落とした。
そして、すぐそばにあるその手を横目で見る。
今なら。
胸の奥で、誰かが囁いた
岩本は左手をハンドルから離し、ためらいながら阿部の手へ伸ばした。
触れる直前で、一度、指先が止まる。
こんなことをして何になるのだろう。眠っている相手の手を、勝手に握るなんて。
それでも、引き返すことはできなかった。
そっと、細く長い指先を握る。
ほんのりとした体温が、触れ合った場所から掌へ伝わった。
ただそれだけなのに、胸が締めつけられるほど愛おしさが込み上げる。手のひら全体を重ねることも、指を絡めることもできず、触れているのは指先だけ。
それが今の自分たちの距離そのもののように思えた。
眠っている時にしか、こんなこともできない。
そんな自分が、ひどく情けなかった。
どうするのが正解なのか、まるで分からない。
この気持ちを伝えてもいいのか。このまま隠し続けるべきなのか。もし告げてしまったら、今あるものまで失ってしまうのではないか。
「ん……」
阿部が小さく声を漏らし、ぴくりと身じろぎした。
岩本の心臓が跳ねる。
起きたのかと思ったが、阿部の目は閉じられたままだった。規則正しい寝息も変わらない。
ほっとしたような、どこか残念なような複雑な気持ちで、岩本は何度も助手席をうかがった。
すると、不意に阿部の口元が緩んだ。
微笑んだ——ように見えた。
「……ひか……る……」
夢の中で紡がれた自分の名前。
その微かな声を聞いた瞬間、岩本は弾かれたように手を放した。
触れていた温もりが、不意に途切れる。
「はっ……お前、寝ててもあざといの?」
冗談めかして呟き、ハンドルを握り直す。
指先に、まだ阿部の体温が残っていた。
夢の中で、阿部は自分に会っているのだろうか。
それとも、ただ寝言で名前を呼んだだけなのか。
期待してはいけないと分かっているのに、胸が震えるほど嬉しかった。けれど、嬉しいと思ったぶんだけ、どうしようもなく苦しくなる。
フロントガラスの向こうには、どこまでも青い空が広がっている。
こんなにも明るい景色の中で、自分だけが泣き出しそうな顔をしていることを、岩本は分かっていた。
やがて、車はレンタカー店へ到着した。
エンジンを切ると、それまで車内を満たしていた音楽と走行音が途絶え、急に静けさが降りてくる。
駐車場に車を停め、岩本は助手席へ向き直った。
阿部はまだ眠っている。
閉じた瞼。かすかな寝息。半開きになった無防備な唇。
車内には二人きりで、周囲に人の気配はない。
この唇に口づけたら、何かが変わるだろうか。
ほんの一瞬だけなら、阿部は気づかないかもしれない。
そんな考えが浮かんだ。
身を乗り出せば、すぐに届く距離だった。
それでも。
岩本は短く息を吐き、いつもの調子で声をかけた。
「……阿部ー、着いたよー」
「……は……っ」
阿部がびくりと肩を揺らし、ゆっくり目を開ける。何度か瞬きをしてから周囲を見回し、ようやく状況を理解したらしい。
「ごめん……。結局、寝ちゃった」
まだ眠気の残る顔で、申し訳なさそうに眉を下げる。
「いいよ」
岩本は小さく微笑んだ。
先ほどまで自分が何を考えていたのかなど、少しも悟らせないように。
「忘れ物ない?」
しっかりしているようで、意外と忘れ物の多い阿部に注意を促す。
「ん……ちょっと待って」
阿部は足元を確認し、シートの隙間を覗き込む。それから身体を捻って後部座席を見回し、最後に自分のポケットを確かめた。
「OK」
そう言って、親指と人差し指で輪を作ってみせる。
そのいつもどおりの仕草に、岩本は少しだけ救われたような気がした。
レンタカーの返却を済ませ、二人は並んで空港内へ向かった。
建物へ続く通路を歩きながら、岩本は何気ないふうを装って尋ねる。
「夢、見てた?」
「うん」
阿部はすぐに頷いた。
「ちょっと嬉しい夢、見てた」
思い出したのか、頬を緩めてにこにこと笑う。
——俺、出てきた?
その言葉が喉元までせり上がった。
けれど、岩本は飲み込んだ。
もしも「出てきたよ」と言われたら、きっと平静ではいられない。何をしていたのか、どんな夢だったのか、もっと聞きたくなってしまう。
反対に「出てきてない」と言われても、勝手に傷つくのだろう。
だから、聞けなかった。
「また近々、潜りに行こう」
代わりにそう言うと、阿部の表情がぱっと明るくなる。
「どこがいい?」
「海外はまだ早いかな。でも、いつか行きたいね」
「うん。そうだね」
阿部となら、どこへだって行きたい。
青い海でも、見知らぬ国でも。
たとえこの先も、ただの仲間として隣を歩くことしかできないとしても。
胸の内だけでそう呟きながら、岩本はそっと阿部の背中に手を添えた。
進むべき方向を促すような、何気ない触れ方で。
阿部は何も疑わず、岩本の手が示すほうへ歩いていく。
触れたのは、ほんの一瞬。
今の岩本には、それが精一杯だった。
まだ、この恋は先へ進みそうにない。
コメント
2件
いわあべさん大好きなのでもう、最高です😭(語彙力無さすぎてごめんなさい🙏)素敵な作品をありがとうございます😊