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楽屋に入ろうとした時、中から声が聞こえてきた。
「え、阿部ちゃん、今好きな人いんの?」
佐久間だ。
「うん、いるよ」
「何次元の人」
「三次元」
「付き合ってんの?」
「片想い」
「えー、誰?俺も知ってる人?」
「知ってる人」
「えぇー、マジでー?」
岩本はそこまで聞いて、静かにドアから離れた。踵を返し、呆然としたまま自販機スペースへ向かう。
何か飲んで落ち着こう。そう思ったが頭が混乱していて、飲み物すら選べない。
阿部に好きな人がいる?
さっきの話を反芻する。阿部には今好きな人がいて、それは三次元に存在する、佐久間も知る人物だと。という事は、岩本もその人物を知っている可能性がある。スタッフや共演者の顔が浮かぶ。じわじわと焦燥感が湧き上がってきた。
もし阿部とその人物がうまくいったら。阿部はその誰かのものになるわけで。何ならそれを、自分は祝福しなければいけない状況になるかもしれない。
嫌だ。無理だ。
想像しただけで胸が苦しくなる。自分が想いを告げなくても、今の距離感は変わらないと漠然と思っていた岩本は、そうではない事を今はっきりと自覚した。自販機に伸ばした指が微かに震える。恐怖にも似た感覚を覚えていた。
「買わねえの?」
そんな時、急に背後から声がかかった。驚いて振り返る。
「どした?」
深澤だった。
「ふっか…」
「なんて顔してんの、お前」
深澤は驚き、そして察した。これは阿部関係で何かあったな、と。スマホを取り出し、さっと自販機で缶コーヒーを2つ買う。
「あっちで聞く」
コーヒーを一つ岩本に押し付け、パーテーションで仕切られたフリースペースへ移動する。岩本は暗い顔をしたままそれに従った。
「で?何があったの」
席につくなり深澤は切り出した。岩本はぽつぽつと説明する。阿部に好きな人がいると聞いた事。それが自分も知っている人物かもしれない事。阿部と今のままの関係ですら居られなくなるかもしれない事が、現実味を帯びた事。
「はあ、なるほど」
それでこの落ち込みとさっきの動揺か、と納得する。
しかし
(いや、阿部ちゃんの好きな人って、照だろ)
コーヒーを一口飲んで、深澤は思った。阿部から直接聞いたわけではないが、阿部の岩本に対する態度は他のメンバーへの態度とは微妙に違うのだ。阿部は賢いし、あざとさでコーティングした言動で自分の感情を煙に巻く。しかし、長い付き合いの阿部の心の機微は、深澤には判るのだ。
「でもさ、前向きに考えれば、取るべき方針が決まったわけじゃん」
絶望感を漂わせる岩本の肩を叩き、深澤は明るい口調で言った。
「照は、阿部ちゃんとそいつが良い感じになる前に、行動すれば良いわけだろ」
「行動って…」
「告って関係を進展させる」
それしかねえだろ、と続けると、岩本はコーヒーを握る自分の手を見つめ、小さく頷いた。
「やる気になった?」
「阿部を…誰かのものに、したく、ない…」
「俺のものにしたいって、素直に言えよ。」
深澤はそう促した。本音を全部、吐き出させたかった。
「…俺のものにしたい。誰にも渡したくない」
「よし。…だいぶマシな顔になった」
しっかりした口調で宣言した岩本の背中を、深澤は軽く叩いた。コーヒーの残りを飲み干して席を立つ。
「まあ、いつでも話聞くし。頑張れよ」
「ありがとう」
胸のつかえが取れたからか、明るい表情で岩本は返す。
(まったく世話の焼けること)
楽屋へ連れ立って歩きながら、深澤は苦笑した。
(中学生かよ)
普段の岩本からは想像出来ない、弱気な姿を思い出し、心の中で悪態をつく。それでもそんな恋をしている岩本が微笑ましくもあった。
早く良い報告を聞きたいものだ、と。深澤は、心からそう思った。