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その時、階段から足音が聞こえた。
反射的にレイだと思った私は、急いで部屋を飛び出した。
心臓がせわしなく打ち付けて、息が苦しい。
廊下の物入れから掃除機を引っ張り出した時、『ミオ』と名を呼ばれた。
レイの声はいつも通りだったけど、私は振り向けない。
それでもこのままじゃ不自然だと、私は顔を見られないようにして、彼の部屋に入った。
レイは掃除が終わるのを待っている間、廊下から私を見ている。
特に変わった様子はないのに、やましい気持ちがあるからか、どうしても背を向けがちになってしまった。
ひと通り済んだところで、私は『終わったよ』と短く声をかける。
物入れに掃除機をしまうと、私は逃げるようにして自分の部屋に戻ろうとした。
その時、まだ廊下にいたレイが壁から身を起こす。
『なにがあったの。
明らかに挙動不審なんだけど』
言われて足が止まった。
同時にさっきよりさらに鼓動が速くなる。
「なんでもない」と言いたかったけど、言えば普段通りの声にならないのはわかっていた。
返事をしないままレイのとなりを抜けようとする。
その時、バンと音がして、彼の右手が私の行く手を遮った。
長身のレイなら、こうして狭い廊下の壁に手をつくのは造作もない。
『学校での様子とは違うよね。
……もしかして、部屋でなにか盗ったの?』
静かな問いだった。感情がこもっていないと思わせるほどの。
だけど私が顔をあげるには十分すぎる発言で、目を合わせられないのに、自分から目を合わせてしまった。
『違う、違うよ。
そうじゃなくて……』
『そうじゃないなら、なに?
信じるも信じないも、ミオ次第だよ』
蒼い目は私をとらえて離さない。
頬を汗が伝うのを感じながら、頭の片隅で思った。
冷静に考えれば、べつにどうってことない話だ。
蚊が入ってきて、それを仕留めようとして、荷物に足をかけて。
そこで転がってきた指輪を、元の場所に戻しただけのこと。
ここでいらぬ疑いをかけられて、ホストとしての信頼を失うわけにはいかない。
『……蚊』
『蚊?』
レイが私の言葉を繰り返す。
『そう。窓をあけたら蚊が入ってきたの。
それで、仕留めようとしてるうちに、レイの荷物に足をかけちゃって、それで―――』
そこで畳の上に転がった指輪が、脳裏に浮かんだ。
斜陽に光る、細い銀色の指輪。
『リュックから指輪が出てきたの。
なんというか……。
それが女物だったから、ちょっと気まずかっただけ』
言った心中は複雑だった。
だけど私は、彼から目を逸らすまいと決めていた。
たしかに挙動不審だったけど、なにも盗んでいないのだから、ここは毅然とするべきだ。
告げた事実に、瞳を揺らすのはレイの番だった。
表情にあまり変化はないけれど、それでも驚いているのはわかる。
さっきは動揺が勝っていたけど、私はこの件で彼を見損なっていた。
もとより、私はレイに対して悪い印象ばかりだし、その言い方は語弊があるかもしれない。
それでも多少なりともいい面だって見えた気がしたのに、今回のことで知りたくないことを知ってしまった。
サイドポケットに無造作に入れているのはどうかと思うけど、日本に持ってくるほど大事な指輪は、だれかのものだ。
そんなものを持っているくせに、だれかれ構わず簡単にキスをするなんて、人として軽蔑する。
私の心中を察したのだろう。
彼はかすかに眉を下げ、壁についていた手を下ろした。
その時階下で足音がして、だれかが駆け足で階段をあがってきた。
「……うわっ!
ここでなにしてんだよ」
拓海くんは、狭い廊下で並ぶ私たちを見て驚いた。
どう話そうかと言い訳を考えるより先に、レイがあけっぱなしの部屋に目を移す。
『部屋に蚊がいて、ミオがやっつけてくれたんだ。
それでお礼を言ってただけだよ』
『……は? 蚊?』
『そう。蚊。
……じゃあミオ。 助かったよ、ありがとう』
レイは私と拓海くんに微笑むと、部屋に入っていった。
ふすまが閉まり、急に視界が片方閉ざされた。
私が突きつけた事実に、レイだって多少なりとも動揺していたはずだ。
なのにそれを一切感じさせない変わり身の早さに、しばし呆然とする。
だけど彼はこういった人だし、私がなにも盗っていないとわかってくれればそれでいい。
胸にしこりが残るけど、目を逸らして考えないことにした。