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「……澪?
あいつになにかされたの? 大丈夫かよ」
ふすまを見て動かない私に、拓海くんが心配そうに声をかけた。
「あ、ごめん……!
掃除はしたんだけど、シーツ交換するのを忘れちゃって……」
そう言ったのはごまかすためもあったけど、あの時は頭が真っ白で、本当に忘れてしまった。
「なんだ、そんなこと。
あいつもいいっていったんだから、べつにいいんだろ」
「……うん、でも……」
「あと俺がいる間は、あいつの部屋の掃除は俺がやる」
「……えっ、だめだよそんなの!」
私は慌てて拓海くんを制した。
「この家で、私ができることってこれくらいだし!
けい子さんにもやらせてほしいって頼んでるから、私にさせて。お願いします」
「澪……」
拓海くんは目を細めて息をつく。
それから、曲げた指をコツンと私の額にあてた。
「前から思ってたけど、澪は気をつかいすぎ。
だれがゲストの部屋掃除したって、べつに構わないだろ。
……まぁ、そういったとこが澪のいいとこだけどな」
優しい声で言われ、私はなんとも言えない気持ちになった。
私はこの家の居候で、さらにはけい子さんにお小遣いまでもらっている。
なにかしなきゃと焦って、バイトに出ようと考えたこともある。
だけど民泊はそれなりに忙しいし、ゲストのお世話はけい子さんも喜んでくれているから、これで恩返しになればと思ったんだ。
与えられた役割があれば、ここにいてもいいと、少しは自分に言い聞かせられる。
ただそれだけでお世話を申し出ているのに、それは褒められたことなんだろうか。
私は曖昧な笑顔を向け、額の汗をぬぐった。
「ごめん、汗かいたからシャワー浴びてくるね」
拓海くんの脇を通り、階段を下りようとした時、「澪」ともう一度名を呼ばれた。
「つらくなったら、すぐ言えよ?」
それはどういう意味だろう。
掃除のことなのか、それとも環境についてなのか。
思案した結果、たぶん両方な気がした。
「ありがとう」となるべく明るく答え、階段を下りる。
拓海くんは優しい。
拓海くんだけじゃなくて、この家のみんなが私に優しい。
それはすごく幸せなことだけど、その幸せに甘んじているだけでいいのかと、ふと不安にもなる。
(考えても仕方ないことなんだけどね)
漠然とした不安に、いまだ出口が見つからない。
私は気分を切り替えるように目を閉じ、脱衣所の引き戸をあけた。
その日の夕食は、拓海くんの大好きなすき焼きだった。
拓海くんは無類の肉好きで、さっきも自ら商店街に行ってお肉を買ってきた。
伯父さんがめずらしく早く帰ってきたのもあって、クーラーの下、久しぶりに大勢でテーブルを囲む。
食べながらちらちらレイを見ている拓海くんは、どうしても彼が気になるようだった。
『なぁ、あんたはどこから来たの?』
食事がかなり進んだところで、とりあえずの空腹は満たされたらしく、拓海くんがレイに尋ねる。
『アメリカのロサンゼルスだよ』
『日本には観光に来てるの?』
『まぁ……そんなところかな』
『ふーん……。
3か月もここにいるみたいだけど、なにするつもりなの』
今までうつむき気味だった私は、そこで向かいのレイを見やった。
今日みたいにけい子さんのお手伝いもしているんだろうけど、レイは圧倒的に外に出かけている時間が長い。
いったいなにをしているのか、私も気にはなっていた。
レイは考える素振りをしてから、『いろいろ』と笑って答える。
邪気のない輝いた微笑みに、拓海くんは言葉を失ったようだった。
レイは世俗から離れた雰囲気があるから、今みたいにされるとなにも言えなくなる。
拓海くんは、それからは釈然としない様子でお肉をほおばり、私の視線に気付いたレイは、こちらにも穏やかな笑みを向けた。
だけどそれは、感情の読み取れない、綺麗な微笑みだった。
食事を終え、拓海くんはリビングでテレビを見始めた。
そのとなりで、レイと伯父さんが談笑している。
なにを話しているのかは聞き取れないけど、レイがこの家にすっかり溶け込んでいるのは確かだった。
私はそれを横目に、自分の部屋に戻る。
もう少ししたらシャワーをしに行こうと思いながら、ベッドに横になった。
(疲れたー……)
網戸からはほんの少しの風と、セミの鳴き声が入ってくる。
昨日に引き続き、今日もいろんなことがあったせいでくたくただ。
瞼を閉じれば、一日の出来事が脳裏を巡る。
レイが教室に現れたこと、中庭で1年生にからまれていたこと。
去り際の不意打ちのキスや、部屋で見た銀色の指輪。
それらを総合しても、私はやっぱり「レイ・フィリップ」という人がわからない。
ぼんやりしていると、突然セミの鳴き声が近くなった。
もしかして、すぐそこの壁にでもくっついたのかもしれない。
あまりの煩さに、私は仕方なくベッドを抜けた。
立ったついでにシャワーをするかと、私は着替えを掴んでドアをあける。
その時、階段からだれかがあがってきた。
(レイ……)
彼だとわかったと同時に、顔を合わせたくなくて部屋に逃げ帰りたくなった。
だけどそうする間もなく、2階にあがってきたレイは、私を見ると足を止めた。