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口に含んだプティングが溶けていくまで味わってから、アネモネはうっとりと口を開く。
「これは芸術品ですね」
「ははっ、すごい例えだね。でも、きっとお屋敷のシェフさんが喜ぶと思うから、一語一句間違えずに伝えておくよ」
「ええ、是非とも。そして長生きしてくださいとも付け加えておいてください」
「わかった、わかった」
ティーカップを片手ににこにこと笑うソレールは、本当に嬉しそうだった。こんなに美味しいものを、食べることができなかったというのに。
アネモネは、ソレールとの出会いに心から感謝した。
無論、美味しいものを食べさせてくれたこともそうだけれど、彼は人を穏やかな気持ちにさせてくれる。一緒にいると、自然と笑みが溢れてしまうなんて、初めてだ。
「……私、嬉しいです」
「うん。また明日にでも甘いものを貰ってこよう。他には何が好きかな?あ、嫌いなものを聞いた方がいいか。苦手な食べ物はあるかい?」
デザートのことだと思ったのか、ソレールは嬉しそうにしながらも、矢継ぎ早に質問をするが、アネモネはそれには答えなかった。
「ソレールさん、質問があります」
「なんでも、どうそ。あと”さん”は、いらないですよ、アネモネさん」
訂正を入れながらも、ソレールはアネモネに続きを促した。
「今日はこのまま、あのお屋敷に戻らなくても?」
「ああ、大丈夫。ベッドは君が使っていいから。私は、どっか適当に休むから気にしないでいいよ」
質問の意図を読んでくれたのは、さすがとしか言いようがないが……気なる点がある。
アニスは、未だにアネモネにとって客なのだ。
彼が個人的に護衛を雇っているということは、日常に危険が付きまとっていることを表している。そしてアネモネは、アニスが護衛を必要としている理由を知っている。
加えてあの性格。きっとこうしている今も、無駄に敵を作っているに違いない。
初対面のうら若き乙女に、何のてらいもなく首根っこを掴める性格からして、そこそこ腕力はあるだろう。手練れの一人や二人、自分の力で何とかできるかもしれない。
正直なところ、依頼品を届けた後なら、アニスが誰に襲われようが、窮地に立たされようが知ったことではない。
だが、それまでは五体満足で居て貰わないと困る。だってそれも、依頼内容の一つだから。
「あのう……護衛というのは、夜は勤務外になるんですか?」
言葉を選ぼうと思ったけれど、丁度良いものが見つからなかったので、アネモネは直球で訊いてみた。
踏み込み過ぎた質問に「ムッとするかな?」と、ちょっと不安に思ったけれど、ソレールは不機嫌にならなかった。
「いや、本来なら夜間も護衛に勤めている。でも、アニス様の護衛騎士は他にもいるんだ。だから今日は大丈夫。もともと夜勤はない日だったし」
「そうなんですか」
アネモネは、ほっと安堵の息を吐いた。
不安要素が消えて満腹になった途端、我ながら図々しいとは思うけれど、小さな欠伸が出てしまう。
「なら、一緒に寝ましょう。こう言っては失礼ですが、この家で寝るところはあなたの部屋のベッドしかありませんし」
「……えっと、それはちょっと……私は別にどこでも寝ることができるから……」
「嫌なら私、床で寝ますよ」
これまでずっと、温厚な表情しか浮かべていなかったソレールだけれど、ここで初めて困った表情に変わった。
それからしばらく本日の就寝場所をめぐって、アネモネとソレールは押し問答を続けた。
善人ではあるがソレールは男なので、さりげなく彼の指先に触れてみたけれど、下心はどこにもない。
アネモネにとったら気にしないことでも、年頃の女性と同じベッドで寝るなんて、彼の常識には当てはまらないのだろう。
プティングを気前よく譲ってくれた時とは別人のように、頑として頷くことを拒んでいる。
一方、アネモネは、居候の身であることを自覚している。主を差し置いて、この家で唯一のベッドを使うなんてあり得ない。
だから意地っ張りと思われても、主張を絶対に曲げる気は無い。
ただ内心「なら、好きにしろ」と言われ、本当に自分が床に寝る羽目になったら、どうしようと思ってはいる。吹きさらしのベンチで一晩過ごすのに比べたら、まだマシだけれど。
でも、その心配は杞憂に終わった。
長い長い論議の末、アネモネは無事、ベッドでの就寝権を得ることができたのだ。
ソレールと、一緒に。