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何か言いかけた八木の、言葉の続きが聞こえる前に「わ、見えちゃった……!」と、慌てたような声が響く。
パタパタと数人が小走りに進み、パタン、とドアを開け閉めする音。
姿は見えないが、人事部の人だろう……。と、真衣香は納得し、緊張から硬直していた身体を落ち着かせようと小さく深呼吸を繰り返した。
(……ビックリした。 人が見てたからだったんだ)
やがて、真衣香を抱きよせていた手から力が抜けていくのがわかる。そのタイミングで声を張り上げた。
「や、八木さん。 こ、ここ、恋人のフリ! 有難いんですけど予告が欲しいです……! 私、その、不慣れなもので」
恥ずかしさと、不慣れな自分への虚しさからか。無意識に涙目での抗議となった。
八木は何やらポカンと真衣香を眺めた後。
「……あー、そりゃ悪かったなぁ。 ガキの相手なんか慣れてねぇから」
と、すぐに、いつも通りの意地悪な笑顔を見せた。
密着していた身体が離れていく。
「つーか人事も今ので全部帰ったぞ。 お前も帰れ」
八木が顎でしゃくって人事部の電気が消えていることを知らせる。
仕切りがあるだけで同じフロアだ。半分明かりの消えた薄暗い室内。
「八木さんは帰らないんですか?」
「なんだ、一緒に帰りたいってか」
聞いた真衣香に、ニヤニヤと意地悪な笑みが返ってくる。
「違います!」と、ムキになって言い返すが。その後いつもは何ターンかリズム良く続く軽口が返ってこない。
「俺はもうちょい仕事残ってるから、今日は一緒に帰ってやれねぇぞ」
「そ、そうですか……」
思わず、残念そうな声を出してしまった。無意識に、八木を頼りにしすぎてしまっている自分を自覚してしまう。
(最低……。 優しくしてくれる人に寄り掛かろうとするなんて)
痛いくらいに唇を噛み締めて、自分を恥じる。
そして、その気持ちを誤魔化すためにもっともらしいセリフを急いで探し出した。
「仕事、何か残ってましたっけ? 私も手伝いますよ」
「あ? ないよ、お前ができる仕事は」
「で、でも!」
食い下がると、一度離れたはずの距離。
それが一歩分縮まった。八木が真衣香に向かって一歩近付いたからだ。
「八木さん?」
また、一歩。
もう一歩。
身動きが取れないほど、目の前に八木が立つ。
先ほどと違い、お互い立っている状態なので緊張は半減だが。
……しかし、見上げると不機嫌そうに眉を寄せる表情が見えた。
(た、頼りすぎがバレた……)
まだ仕事に慣れていない頃、すぐに八木を頼って質問しては『自分で考えろ』と、よく怒られたものだ。
「あの、八木さん……」
戸惑う真衣香が、繰り返し呼びかけるとようやく反応を見せる。
「…………いや、どう見てもお前マメコだな」
「はい?」
「こっちの話だ、気にすんな。 つーかマジで早く帰れ。 俺は一服して、もう一仕事するから」
顔の前でタバコを吸うジェスチャーを見せたあと、真衣香から離れスタスタとフロアを出ていく。
(……なんだったんだろ、怒ってはなさそうだったけど。 でも雰囲気がいつもと違った)
プライベートな問題に上司を巻き込みすぎてしまったことを反省しながら、真衣香はデスクの上を整理して、まだ片付けていなかった給湯室へ向かう。
ポットのお湯を捨て、水洗いをしていると。
キィ……っとドアの開く音。
続いて、パタンと閉まる音が聞こえた。
「あれ? 八木さん、早かったですね」
タバコを吸いに出ると、いつも10分は戻らない。
忙しかったりすると、仕事が進まず真衣香はよくムカムカと八木の帰りを待ったものだ。
洗ったポットの水を切り、元の位置に戻しながら呼びかける。
「給湯室、片付けるの忘れてただけです。 もう帰るんで怒らないでくださいね」
しかし、何の返事も返ってはこない。
(もしかして八木さんじゃない?)
人事部の誰かが忘れ物でもしていたのだろうか? もしくは杉田がまだ帰っていなかったのか?
その時、背後に人気を感じた。
八木だと思い込み話しかけていた相手は誰だったのだろう?と、振り返ろうとしたのだが、それは叶わなかった。