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ふと、ステージ袖の暗がりから、ひとりの女性が現れた。
客席のざわめきが、すっと静まり返る。
彼女は、華やかでも大胆でもない、くすんだベージュの衣装に身を包んでいた。
装飾らしい装飾はなく、舞台照明の下でも、決して目立つ存在ではない。
けれど、その歩みには、妙な緊張感と、不器用な慎重さがにじんでいた。
羽鳥は、思わず目を細める。
(……年は、自分とそう変わらないくらいか。いや、少し上か?)
服装の落ち着きや所作からは、年相応の大人の印象もあった。
だが舞台に立つその姿は、どこか“少女”のように脆く、危うさを纏っていた。
むしろ“生真面目すぎる大人”に近い、社会性に疲れきった人間の、それに似た陰りすらある。
彼女はステージ中央に立つと、深々とお辞儀をしてから、ぎこちなくマイクを手に取った。
「あのっ……ど、どうも……!」
声は少し裏返り、戸惑いが混ざっている。
けれど、それは演技ではなかった。誤魔化しも飾りもない、本物の“不器用さ”だった。
——とても、猛獣使いには見えない。
その瞬間、ステージ脇から、あの斬島凶の声が響いた。
「カレンさん。大丈夫。堂々と」
先ほどまでの冷淡さを和らげたような、どこか優しさを含んだ声だった。
カレンは、びくりと肩を揺らしつつも、背筋を伸ばして返す。
「は、はいっ!」
客席のあちこちから、くすくすと笑いが漏れた。
観客たちは、ざわついていた。
「猛獣使い?嘘だろ…?!」
「大丈夫か? あんな女の子で……」
だが、カレンはそれらの声に気づいていないのか、それとも気にしていないのか——
ただ真っ直ぐに、舞台奥の“檻”へと歩いていく。
そして、奥の闇から、響いた。
重く低く、どこか湿ったような唸り声——
「グルルル……」
観客席がざわめく。
羽鳥も思わず息を呑み、体を強張らせた。
(……本物の猛獣……!?)
檻の奥——
薄暗い舞台裏から、静かに姿を現したのは、
縞模様の毛並みを持つ、巨大なトラだった。
引き締まった筋肉、鋭く光る瞳、
そして、微動だにしない姿勢。
それは“訓練された動物”というより、“野生の王”そのものだった。
羽鳥は無意識に、隣の東堂の袖を掴むように身を寄せた。
「おいおい、本当に大丈夫なんですか……!? あなた、このサーカスの団長でしょう? 止めないと……万が一があったら……!」
慌てる羽鳥に対し、東堂はまったく動じることなく微笑んだ。
「ご安心を。
カレンさんには、ちょっと特別な“才”があるんですよ」
その静かな言葉に、羽鳥は反論の言葉を失う。
不安を拭えぬまま、再び檻の方へ視線を戻した——
なんと、あのトラが。
カレンの軽やかな合図に従って、すとん、とその場に座り込んだのだ。
まるで、よくしつけられた大型犬のように。
カレンは満面の笑みを浮かべ、マイクを掲げる。
「見てくださいっ! うちのトラさんです! 超可愛いんですよ〜!」
トーンも表情も、まるでペット自慢をする小学生のよう。
そのギャップに——
羽鳥は、思わずずっこけた
理屈では、理解できる。
猛獣と心を通わせた者の、信頼の証。
だが——この温度差。
あまりにも無防備で、あっけらかんとした態度に、
観客席からは、戸惑いにも似た笑いが漏れ始めた。
それはどこか、嘲笑にも聞こえた。
“見せびらかし”でもない。
“演出”でもない。
ただ、心から——
あのトラを愛し、信じ、
まっすぐに舞台に立っているだけ。
その純粋さが、今はまだ——
未熟なものとして、笑われている。
けれど羽鳥は、どこかで確信していた。
(この子、絶対“持ってる”)と。
その時——
観客のひとりが、大声で野次を飛ばした。
「おいおい、俺たちはペット自慢見に来たんじゃないんだぜ!」
遠慮のないその言葉に、羽鳥は思わず眉をひそめた。
怒りというより、悔しさだった。
(わかってない……)
舞台上のカレンが、はっと顔を上げた。
「ハッ!! しまった!!」
慌ててマイクを持ち直し、頭を深々と下げる。
「すみません! ショーの最中に……!」
頬を真っ赤に染めながら、叫ぶように名乗った。
「猛獣使いのカレンって言います!!
どうぞよろしくお願い致します!!」
——その瞬間だった。
ぺこりと頭を下げたカレンの隣で、
トラがぴたりと動きを合わせた。
前脚を折り、ゆっくりと頭を下げる。
その場の空気が、一瞬にして凍りついた。
——静寂。
誰もが目を見張った。
野次を飛ばしていた観客でさえ、
言葉を失っていた。
舞台に立っているのは、少女ひとり。
けれどその背後に、“猛獣の敬意”があった。
観客の目が、一斉にステージに釘付けになる。
そこに、台本も演出もなかった。
ただ、カレンとトラの間に流れる——確かな信頼。
それが、目に見えるかたちで浮かび上がった。
嘲笑は、潮のように静かに引いていった。
観客たちの胸に芽生えたのは、畏れにも似た、敬意のようなものだった。
カレンは、頬を染めながらもマイクを握り直し、はにかむように言った。
「まずご覧いただきますのは、トラくんのハードルジャンプです!」
拍手が、自然と沸き起こる。
さっきまで漂っていた冷めた空気が、
一転して温かな期待に変わっていく。
カレンは、檻のそばにあるバーの前に立ち、手で合図を送った。
「トラさん、お願い!」
トラは、耳をぴんと立てる。
地を蹴り、助走——
そして、ふわりと。
空気を裂くように舞い上がり、
しなやかに、正確に、バーを飛び越える。
着地までの一連の動作は、どこまでも美しかった。
一瞬、観客たちの息が止まり——そして、
大きな拍手が湧き起こる。
あのとき、調子に乗って野次を飛ばしていた男も、
今では完全に気圧されていた。
口を開いたまま、硬直したように動けない。
目の前に現れた“現実離れした存在”を、どう受け止めればいいのか分からないのだろう。
そのすぐ後ろで、女性客の声が響いた。
「毛並み、すごいねぇ……可愛い〜」
羽鳥は思わず振り返りそうになった。
(か、可愛いって……いや、怖さの方が先に来るでしょ!?)
汗がじっとりと背中を伝う。
直視するのもはばかられる異様さがあるのに、
誰かのフィルターを通すと“可愛い”に変換されてしまうらしい。
羽鳥は困惑しながらも、舞台上の様子を改めて見つめた。
牙も、爪も、猛獣としての迫力は隠しようがない。
周囲を見渡しても、
ムチや棒と言った、猛獣使いにありがちな道具は、彼女の手にはひとつもなかった。
その様子を見ていた東堂が、静かに言う。
「……見ていれば分かります。無理に従わせてはいない」
「信頼で育てた動きです」
その言葉に、羽鳥は小さく頷いた。
檻の中にいるのに、不思議と閉じ込められているようには見えなかった。
そこには、どこまでも柔らかい空気があった。
トラは、怯えて動いているのではない。
従わされているのでもない。
——ただ、カレンを信じて、動いている。
それは、言葉では説明できないけれど、確かに“つながっている”と分かるものだった。