テラーノベル
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その夜、アパートのドアが叩かれた音は、三度に分けて響いた。一つ目は、挨拶。二つ目は、警告。三つ目は、“諦めろ”という合図だった。
ドアを開けると、蒼翔が立っていた。無言で、だが口元だけが吊り上がっている。
その背後には蓮翔、そして最後に、陽翔。
三人が一列に並んで悠翔を見下ろす時、世界は音を失った。
「久しぶりに、弟の顔、見に来ただけだよ」
そう言ったのは陽翔だった。
優しげな声音が、どこか冷蔵庫の奥に放り込まれた食品のように湿っていた。
室内に入ってくるなり、蒼翔は靴のまま踏み込んだ。
「お前、まだこんな狭いとこ住んでんの?犬小屋以下じゃん」
彼は部屋の隅にあった椅子を蹴り倒し、冷蔵庫の中身を勝手に漁る。
「水しか入ってねえ。栄養失調で倒れたら、どうすんの。…それも、まあ、お前らしいか」
蓮翔は静かだった。だが、手にはベルトを巻きつけていた。
それを見た瞬間、悠翔の背中の神経が一斉に冷えた。
彼はまだ、子どもの頃に聞いた“ベルトの鳴る音”を忘れていなかった。
「脱げよ」
それは命令だった。誰が言ったのかは、もはや関係ない。
三人の誰が言っても、それは“絶対”だった。
「……嫌だ」
と、かすれた声で呟いた時、蒼翔が笑った。
「へえ。反抗期?でもさ、見せるくらい慣れてんだろ。学校でも、ほら。脱がされてんじゃん」
蓮翔が椅子に座り、ベルトを手の甲でゆっくりと撫でた。
「習慣って、怖いよなあ。お前、もうそういう目してる。叩かれるの、待ってる目だよ」
陽翔は悠翔の横に座ると、穏やかに言った。
「寂しかったんだろ。誰にも抱かれずに、冷たい部屋で。…俺たちが来てよかったな」
それからの時間は、記憶の外にある。
音だけが残っている。
ベルトが空気を切る音、椅子が軋む音、押さえつけられた腕の軋む音。
「ほら、泣くなよ。ほらほら、声が出るってことは、元気なんだろ?」
蒼翔の声が耳元に近づいた時、吐き気と共に幼少期の風景が蘇る。
そして陽翔が言った。
「俺たち以外に、お前のこと“見てくれる人間”、いないんだからさ」
終わった後、三人はまるで何事もなかったかのように立ち上がる。
「次はいつ来ようか。来月?それとも、試験の時期に合わせるか」
蓮翔がそう言うと、蒼翔は笑いながら玄関のドアを開けた。
「ほら、お前、学費出してもらってるんだろ?だったら、ちょっとくらいはさ、兄孝行な?」
陽翔だけが、最後まで部屋に残っていた。
黙って悠翔の顔を見つめる。そしてこう言った。
「泣くな。…泣いても、お前の味方はいない」
ドアが閉じる音は、何かを断ち切るようだった。
でも実際には、何一つ終わってなどいなかった。
その夜、悠翔はベッドにうつ伏せで倒れたまま、明け方まで一言も発さなかった。
だが、身体はちゃんと覚えていた。
「次に来るときは、どの服を着ておけば少しは傷が隠せるか」ということを。
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