テラーノベル
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契約書と動画を突きつけられてから、時間の感覚が曖昧になった。
膝に落とした視線を上げられないまま、瑠璃香はシャツの裾をぎゅっと握りしめる。指先が小さく震えているのが、自分でも分かった。
床に落ちた自分の影が、やけに頼りない。
「……このまま逃げるか?」
晴永の声は、驚くほど静かだった。
責めるでもなく、急かすでもなく。まるで、本当に選択肢を渡しているみたいに。
けれど瑠璃香は答えられなかった。
逃げたい。だけどこの格好のままではそんなこと出来るはずない。そんなの分かっているはずなのになんて意地悪な質問なんだろう? そもそもここへ入ってきたときの記憶がない。服の在りかはおろか、玄関の位置も、自分の靴の所在も分からない。現実が、否定を先回りして塞いでくる。
「無理に縛る気はない。……今は、な?」
意味深な言い方に瑠璃香が晴永をじっと見つめたら、彼は少しだけばつが悪そうに視線を外した。
「今は……ってどういう意味ですか?」
「――起きたことを、なかったことにはしないって意味だ」
それだけ言い残して、晴永は寝室を出て行ってしまう。
遠ざかる背中を見つめながら、瑠璃香は唇を噛み締めずにはいられない。
一旦は逃がしてくれる、という顔をして……。けれどそれは、すぐに包囲網を閉じるための猶予にしか思えなかったから。
***
隣室の方から、カチャカチャという音が聞こえてくる。瑠璃香はその音を聞きながら、ベッドサイドへ落ちているトレーナーを手に取った。
いま借りているシャツよりも、こちらの方が丈も長そうだし、布地も厚い。
ちょっと迷って……シャツの上へトレーナーを重ねると、太ももの半ばあたりまで身体が隠れてホッとする。
このまま寝室にいてもらちが明かない。瑠璃香は下着や服も取り戻さねばならないのだ。
意を決して隣室への引き戸を開けると、湯気と一緒にほろ苦くて香ばしいコーヒーのにおいが瑠璃香の鼻孔をくすぐった。
「とりあえずコーヒーでも飲みながら話さないか?」
逃げてもいいと言ったくせにコーヒーを飲めという。
「あの……課長……、私、それより……」
「……晴永だ、瑠璃香」
「え……?」
いきなり下の名前で呼ばれて、瑠璃香は戸惑った。
確か昨夜、新入社員歓迎会の時までは、彼は自分のことを〝小笹〟と苗字で呼んでいたはず――。
「まさかそれも忘れたのか。……お前が先に言い出したんだぞ? 結婚するんだから下の名前で呼んで欲しいって」
「そ、そんなことっ」
「言ってないって言い切れるのか?」
――結婚しようと言ったことすら覚えてないくせに。
そう言外に付け加えられた気がして、瑠璃香は口ごもる。
「そっ、それにしても、ですっ! 私が新沼課長を下の名前で呼ぶなんてこと――」
あり得ません! と続けようとしたのだが……。
「昨夜ベッドの中ではさんざん愛らしく〝はるにゃがしゃん〟って甘えてきてくれたのに?」
「――っ!」
にやりと笑われて、瑠璃香は言葉に詰まった。
ベッドの中――。それは情事の最中のことに他ならないではないか。
そう思い至った瑠璃香は、ぶわりと頬に熱が昇るのを感じた。
「で、何を言おうとした?」
「……?」
「さっき。俺になんか言いかけただろ」
そこで晴永からじっと見つめられた瑠璃香は、しばし考えてハッとする。
「わ、私の服! どこですか!?」
ノーブラ、ノーパン状態で、悠長にコーヒーなんて飲めるわけがないではないか!
コメント
1件
どうする、るりかちゃん(笑)