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十五歳の春、翡翠の首飾りを握りしめたまま北の国境へと送られた滉斗を待っていたのは、「人間」であることを捨てるための地獄だった。
若井家の修行場は、年中雪に閉ざされた極寒の地にある。そこでは、情愛は「不純物」であり、優しさは「死」と同義であった。
「若井家の長男よ。貴様の剣に、迷いという名の塵が混じっている」
師範であり父でもある先代当主の声が、冷たく響く。
滉斗は毎日、凍てつく滝に打たれ、あるいは数百の刺客を相手に、文字通り血を吐くような鍛錬を強行された。最初は、目を閉じれば元貴の柔らかな笑顔や、共に咲かせた椿の花が浮かんだ。しかし、その記憶こそが滉斗を弱くさせる「毒」であると見なされ、彼はそれを自ら封印することを強要されたのだ。
十七歳の冬、彼は初めて真剣で人を斬った。
手が震え、胃の底からせり上がる不快感に襲われたが、周囲の家臣たちは称賛の拍手を送った。
「それでいい。感情を凍らせろ。お前は王の盾ではなく、国を統べるための『氷の処刑人』となれ」
十代の終わりを迎える頃には、滉斗の瞳から輝きは消え失せていた。
彼が剣を握れば、周囲の空気は物理的に凍結し、近づく者さえも凍傷を負わせる。もはや、元貴の手のぬくもりを思い出すことさえ、肉体的な痛みを伴う拒絶反応となってしまった。
翡翠の守り袋は、いつしか軍服の最も深いポケットの奥、自分でも触れることのない「墓標」のように沈められた。
二十代半ば、滉斗は若井家の家督を継ぎ、国最強の将軍としてその名を轟かせていた。
その頃、王都から届く報せはどれも、彼を失望させるものばかりだった。
「次期国王、大森元貴は未だに攻撃術を習得できず」
「王族としての威厳を欠き、民草と戯れ、花を育てることに終始している」
洗脳に近い軍事教育を受けた滉斗にとって、それらの報告は、かつての愛しい少年の思い出を汚す「無能な王の醜態」として処理された。
「俺があれほど地獄を見て、心を殺してまで守ろうとした男は、そんなにも脆弱で、国を滅ぼす存在に成り果てたのか」
期待は憎悪へ、慈愛は冷徹な選別へと形を変えていった。
彼の心は、若井家が代々継承してきた「絶対零度の魔力」によって、完全に物理的な氷で守り固められた。
かつての元貴との約束は、琥珀に閉じ込められた宝石ではなく、氷山の底に沈んだ、触れれば壊れてしまう不吉な遺物へと成り下がった。
そして、二十九歳のあの日。
反乱軍の決起を促したのは、他ならぬ滉斗自身の「絶望」だった。
「この国に慈悲はいらない。必要なのは、外敵を退け、国民を統制する強固な力だ」
王邸へ進軍する直前、滉斗は私室で一人、鏡を見つめていた。
漆黒の軍服に、伝説の氷剣。その瞳は、真冬の湖底のように澄み渡り、一滴の情も映してはいない。
彼は、机の引き出しの奥に眠っていた「翡翠の守り袋」に一瞬だけ指を触れた。
指先に走る、懐かしくも痛烈な熱。
彼はそれを冷酷に振り払い、軍手の中に隠した。
「すべてを終わらせる。あの温かな幻想も、今の無能な王も」
王邸の門を蹴破り、逃げ惑う家臣たちを氷漬けにしながら大階段を昇る滉斗の脳裏には、もはや一輪の椿すら咲いてはいなかった。
ただ、「強き国を作るために、弱き者を排除する」という、十四年かけて骨の髄まで叩き込まれた軍人としての使命だけが、彼の足を動かしていた。
重厚な扉の向こうに、かつての聖域がある。
滉斗は迷いなくその扉を蹴破った。
そこに立っていたのは、十四年前と同じ、悲しいほどに美しい瞳をした大森元貴だった。
その瞳を見た瞬間、滉斗の心に張り巡らされた「氷」に、初めて目に見えないほどの小さな亀裂が入った。
しかし、彼はそれを「敵意」という名の冷気で無理やり塞ぎ、静かに、そして無慈悲に剣を抜いた。
「……お久しぶりです、国王陛下」
その声は、かつて「ひろぱ」と呼ばれていた少年とは、似ても似つかぬほど冷え切っていた。
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