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(何でこんなことになっちゃったんだろう……)
幼少期をともに過ごした屋久蓑大葉との見合い話がダメになって、気持ちを切り替えるためにもしばらくは仕事に専念しようと気合を入れたばかりだったのに。
美住杏子はこちらを見てはひそひそ話をしたりクスクスと忍び笑いを漏らす同僚たちを見て、小さく吐息を落とした。
「ねぇ、あの子にだけお菓子あげないのは可哀想だよぉー」
一見杏子を気遣っているように告げられたセリフも、実際はそうじゃないことを杏子はイヤになるくらい知っている。
だって――。
「もぉー、古田さんってば忘れたの? あの子、安井さんの彼氏に色目使った上、怪我させちゃうような人よ? そんな子にお情けなんて必要ないでしょう?」
「それもそうね。木坂さん、思い出させてくれて有難う。私、安井さんを裏切るところだったわぁー。ホント、人畜無害そうな顔して怖い怖ぁーい」
古田さんが最初、わざとらしく杏子を気遣うような言葉をこちらにも聞こえるような声音で告げてきたのは、木坂さんからのセリフを引き出すための布石に過ぎなかった。古田さん・木坂さんともに安井さんの取り巻きなのだから当然だ。
***
営業課のエースと評されている笹尾雄介から内線電話で『経費のことで相談したいことがある』と呼び出されたのは昨日の昼休みのことだった。
経理課所属の杏子は、少し前に笹尾からの出張に関する経費の精算をしていたから、てっきりそれに何か問題でもあったのかな? と思ったのだが。
『ごめんね、美住さん。ちょっとフロア内では話し辛いことだからさ。悪いけど十三時に三階の踊り場で待っていて欲しいんだ。いいかな?』
そんな提案を鵜吞みにして昼食後、人通りの少ない踊り場で待っていたら、十三時を五分ばかり過ぎて来た笹尾に突然抱き締められた。
「あ、あのっ。笹尾さんっ!?」
「俺さ、美住さんのことずっといいなって思ってたんだよね。大人しいし、男を立ててくれるし。でさ、今日たまたま営業先で小耳にはさんだんだけど……美住さん、見合い、相手から断られたみたいじゃん? 見合いしようと思ってたってことは男が欲しいって気持ちはあるんでしょう? だったら……俺と、どう?」
約束の時間に遅れて来たことへの謝罪もなく、本当に突然。
じっとりと耳に吹き込まれるようにささやかれた笹尾のその言葉にゾワリと悪寒が走る。
そういえば笹尾の取引先には父親の勤め先もあった。もしかしたらそこで父から何か聞いたのかも知れない。
「でもっ、笹尾さんには安井さんが……」
「ああ、そんなこと」
杏子の言葉に笹尾がクスッと笑う気配がした。
「気にしなくていいよ? 亜矢奈はさぁ、見た目はいいんだけど気が強すぎてちょっと嫌気がさしてきてたんだよね。美住さんが俺を選んでくれるって言うならアイツとは別れるよ? どう? 悪い条件じゃないだろ?」
余りのセリフに杏子が二の句を継げずに閉口していたら、それを承諾と受け取ったらしい笹尾の手が胸へと伸びてきた。そのことにハッとして、嫌悪感一杯。「放して!」と思い切り藻掻いたら、階段の際にいたからだろう。バランスを崩した笹尾が階段から落ちてしまった。
もちろん、笹尾に抱き締められていた杏子だって少し引きずられて数段落ちたせいで足をひねった。結果、階段下まで転落した笹尾へ駆け寄るのが遅れたのだが――。
騒ぎを聞きつけて集まった人だかりの中に恋人の安井亜矢奈を見つけた笹尾は、あろうことか『美住さんに呼び出されて踊り場へ行ったら交際を迫られた。断ったら逆上した彼女に突き飛ばされた』と嘘を並べ立てたのだ。皆の視線が集まる中、杏子が階段の上の方で立ち往生していて、笹尾のそばへ走り寄れていなかったことが、笹尾の嘘に信憑性を持たせてしまった。
不幸なことに――いやもしかしたら故意かも?――、笹尾から指定された踊り場付近は防犯カメラの死角になっていて、杏子がどんなに「違います! 私、笹尾さんに呼び出されて……それでっ」と訴えても、裏付けになるような証拠は何も残されてはいなかった。
笹尾からの呼び出しにしても、内線電話を通じてのものだったため、外線通話以外着信履歴を残すように設定されてないビジネスフォンには何の履歴も残っていなかったから、どちらが呼び出したのかを問うのは、水掛け論に思われたのだ。
杏子の、「笹尾さんからいきなり抱き付かれた」という決死の訴えも「可愛い恋人がいるのに俺がそんなことするわけないじゃないか。心外だ」と反論された挙句、〝可愛い恋人〟と称された安井が「雄介がそんなことするはずないじゃんっ! 嘘つき女!」と泣きながら加勢して、杏子にとって不利な構図となってしまった。
結果的に真実はどうあれ、誰も杏子を信じてはくれなかったのだ――。
先に杏子が踊り場へ出向いたこと、後から笹尾が来たことが他の場所へ設置された防犯カメラの映像で確認できてしまったことも杏子には不利になって、嘘をついているのはやはり美住さんのほうだと言う風潮が高まった。
笹尾はきっと……最初から、今回みたいに何か起きた場合を想定して〝杏子の方から呼び出された〟と言い逃れする逃げ道を用意していたんだろう。
杏子を先に踊り場へ行かせてから、自分はわざと五分ほど遅れて来たのだって、きっとそういう理由からだったのだ。考えてみれば、営業のエースと謳われる笹尾が、例え社内の人間との約束だとしても自分が指定した時間に遅れてくるなんておかしいではないか。
だがそんなことに杏子が気付いたときには、噂には尾ひれがついて、自分一人ではもうどうしようもない状況になっていた。
「美住さん、ちょっと……」
上司の中村経理課長から小会議室へ呼び出された杏子は、きっともっと良くない状況になるんだろうなと覚悟を決めた。
コメント
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あんずちゃん、大丈夫かな