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「びっくりしました、お兄様がこのマンションにいらっしゃるだなんて」
有生の部屋に戻った夏菜はその驚きを有生に語る。
「しかも、道場は嫌だとか言いながら、ちゃっかり道場での格闘経験を生かしたアクションものの小説を書いてらっしゃったとは。
しかも、私、この本、読んで涙したことがあるんですっ」
と耕史郎にもらった本を手に、夏菜は言った。
「……何故、売れないのでしょう。
ちょっと道場用に何冊かこのシリーズの本、買っていきますっ」
と出て行こうとして、
「待て」
と有生に止められる。
「お兄さん、売れっ子作家になったら、ますます帰ってこないだろうが、いいのか?」
そう問われ、夏菜は考える。
お兄様が帰ってこない。
現状、このまま。
お兄様が帰ってこられる。
お兄様が道場と会社と七代目を継がれる。
……そしたら、私が社長と結婚する理由がなくなるわけですよね。
いや、別になくなってもいいのですが……。
で、でも、買ってきた100均グッズ、まだ全部使ってませんしっ。
「あっ、あの、私は……っ」
と迷いながらも口を開いたとき、そこに有生の姿はなかった。
見回すと、ソファの前のラグに座り込んで、積み重ねられた耕史郎の本を読んでいる。
「面白いじゃないか」
と真剣だ。
その横顔を見ながら、夏菜は、
今、危うく、もう少し此処にいたいですとか言ってしまうところでしたよ……と思っていた。
夏菜は有生の側に行くと、腰を下ろし、本を一冊手に取った。
そのまま二人で読み耽る。
「……お前の兄さんの本が一番の敵だったな」
翌朝、あくびをして起きてきた有生が言った。
は? とキッチンで100均グッズなにを使おうかな、とごそごそしていた夏菜は顔を上げる。
「本読みながら寝落ちしてしまったじゃないか」
と言いながら、有生も横に並び、キッチングッズを手にとった。
社長のいい匂いがするな、と夏菜は思う。
会社にいるときとは違う。
まだ風呂上がりっぽい匂いがする。
会社にいるときは、スーツとか匂いのきつくない整髪料とかのちょっと武装した感じの匂いがするけど。
此処では違う。
道場だといろいろ雑多な匂いがあって、一緒に暮らしていても、そんな風には感じなかったけど。
……ちょっと、どきりとしてしまうではないですか、と思いながら俯く。
まだ山のようなグッズの入っているキッチンカウンターの上のビニール袋をごそごそやっていると、有生が言ってきた。
「失敗したな。
この休みに、ぜひ、お前を襲ってみてくれとお前のジイさんと加藤さんに頼まれいてたのに」
「えっ? ……はっ?」
と動転して謎の言葉を発したとき、有生がゆで卵を綺麗に輪切りできるグッズを手にした夏菜の両腕をつかみ、引き寄せた。
そのままキスしてくる。
ええーっ、と飛んで逃げようとしたつもりだったが、普段の癖で、手刀を繰り出してしまっていた。
だが、そこはさすがの腕前で夏菜の手刀を腕で止めると、有生は後方に飛んで逃げていた。
身構えたまま有生は言う。
「……危ない危ない。
隙を狙ったらいけるかと思ったのに、喉を狙ってきやがった」
や、殺るつもりはなかったんですけどっ。
反射でっ。
反射でっ!
と心の中で言い訳していると、有生がちょっと笑って言ってくる。
「お前にキスするのに必要なことは、隙をついてやったら、即、逃げることだな」
「……RPGの攻略法みたいですね」
攻撃、退却、攻撃を繰り返して敵を弱らせるみたいな。
「いつ攻撃するかわからないからな。
身構えとけよ」
と腕組みした有生に言われる。
道場の癖で、思わず、はいっ、と言いそうになってしまったではないですか、と思いながら、一緒に食事の支度をする。
「そうだ。
エッグベネディクトとか作ってみたいな」
「社長、料理したことなんですよね?
なんでいきなりそんな上級編みたいなところから行こうとするんですか」
「いや、100均グッズを使えばできるんじゃないか?」
「そういえば、そうですね」
とカサカサとたまご系のグッズを取り出す。
「ん? 温泉卵を作るのと半熟卵を作るのがありますが。
どっちですかね? エッグベネディクトって。
そもそも温泉卵と半熟卵、どう違うんでしたっけ?」
「黄身が固まってるのが温泉卵、白身が固まってるのが半熟卵だ。
だがまあ、エッグベネディクトはポーチドエッグだからな」
「……ポーチドエッグは半熟卵ですか、温泉卵ですか」
「ポーチドエッグはお湯に酢を入れて、卵を割って入れるようだな。
白身の方が固まっているから、半熟卵と同じだが、作り方が違うようだ」
途中からカンニングを始めましたね……とさりげなくスマホでポーチドエッグを調べている有生をチラ見する。
だが、そのとき、夏菜は気づいた。
袋の中にもうひとつ、たまごグッズがあったことに。
「あっ、ポーチドエッグカップって小さく書いてあるのがありますよっ」
「よしっ。
ごちゃごちゃ迷わずにとりあえず、それをやってみようっ」
そうですねっ、そうしましょうっと言いながら、二人でまたタブレットなど見ながら、ソースを作ったりする。
社長と二人でこうしてるの、楽しいな。
でも、楽しいだけじゃなくて。
さっきされたキスとか思い出すと、ちょっと切ないような気持ちになってしまうのですが。
何故、貴方はそんなことケロッと忘れたように意気揚々と野菜の水を切るグッズをぐるぐる回しているのですか……。
本当に、おじい様に言われたから、私と結婚しようとしているだけで。
おじい様に言われたから、キスとかしてみただけなのですか。
などと思う夏菜の気持ちには気づかずに、有生は嬉しそうに言ってくる。
「見ろ、夏菜!
たいした手間もかけずに水が切れたぞ」
手間かけずにって、今、やりすぎなほど、かなりぐるぐるしていた気が……と思いながらも、はいはい、と苦笑いして頷く。
男の人って本当にわからない、と思いながら。
朝食を食べてしばらくして、有生はふと我に返った。
朝食を食べたあと、また二人で夏菜兄の本を読み耽り。
気がつけば、もう昼だ。
なにをしているんだ、俺は。
いや、夏菜とまったり過ごす時間も悪くないが、このままでは、なにもジイさんの要求にこたえないまま、休みが終わってしまうじゃないかっ。
だがなにをどうしたらいいのか、と少し離れて座り、まだ無言で兄の本を読んでいる夏菜のつむじを眺めていた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
誰だ?
此処に訪ねてくるような輩はいないはずだが。
まさか、刺客っ?
と身構えながらインターフォンを覗くと、耕史郎が立っていた。
……なんの用だ、と思いながら玄関に行く。
夏菜の兄だから、やあ、お兄さんとか言うべきなのだろうか。
っていうか、サインください、と耕史郎の本をずっと読んでいたせいで思ってしまう。
扉を開けると、耕史郎はなにも言わずに、一枚のDVDをすっと差し出してきた。
えっ? とそれを受け取ると、耕史郎は何故か有生の目を見つめ、こくりと頷いてくる。
言わずともわかるな? というように。
ぱたん、と扉が閉まった。
……なんなんですか、お兄さん、と思いながら、有生がパッケージを眺めていると、
「社長っ、誰ですかっ?
まさか、刺客ですかっ?」
とようやく来客に気づいたらしい夏菜が慌ててやってくる。
「まあ、ある意味刺客だったな」
と昨日、甘い夜に持ち込めなかった責任を耕史郎に押しつけつつ、リビングに戻ったとき、改めてそのDVDを見た夏菜が、あっ、と言った。
「お兄様ですねっ?」
「何故わかる」
「それ、子どもの頃、私が大好きだった映画なんです」
「……だろうな」
と有生は言った。
カンフーものだったからだ。
「なんでしょう。
それを見ろ、ということでしょうか」
と言う夏菜は何故か緊迫していた。
「きっと、そこになにかのメッセージが……っ」
ふと見ると、夏菜の手には、昨夜自分も読んだ謎解きアドベンチャーな小説が握られていた。
「……これを見たからって謎の島への門が開かれたりしないと思うぞ」
と言いながら、有生はDVDをデッキに入れてみた。