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春が散るまでの距離
05.気づいてしまう春
それは、ほんの一瞬のことだった。
昼休み、教室の中はいつも通り騒がしくて。
誰かの笑い声とか、机を動かす音とか、
そんな何でもない音に混ざって__
鈍い音がした。
「……え?」
振り向いたときには、もう遅かった。
春が、
その場に崩れるみたいに倒れかけていた。
「春!」
気づいたときには、体が勝手に動いていた。
咄嗟に腕を掴んで、なんとか支える。
思っていたよりも、ずっと軽かった。
「……大丈夫か」
顔を覗き込む。
春は目を閉じたまま、
少しだけ苦しそうに息をしていた。
周りがざわつく。
「先生呼んだほうが——」
「保健室!」
誰かの声が飛ぶ。
「……っ、だいじょうぶ」
そのとき、春が小さく声を出した。
ゆっくりと目を開けて、無理やり笑う。
「ちょっと、立ちくらみ……」
そう言って、体を起こそうとする。
「無理すんな」
「平気だって」
言いながらも、手はわずかに震えていた。
「保健室、行く」
自分でそう言って、ゆっくり立ち上がる。
でも、
その足取りは明らかに安定していなかった。
「俺も行く」
気づけばそう言っていた。
「え、いいよ」
「いいから」
強く言うと、春は少しだけ驚いた顔をして、
それから小さく頷いた。廊下を歩く。
春は一歩ごとに、少しずつ息を乱していた。
それでも、途中で何度も
「大丈夫だから」
って言う。
そのたびに、胸の奥が重くなる。
保健室の前に着く。
ドアを開けて、中に入る。
「どうしたの?」
養護教諭が顔を上げる。
「ちょっと、立ちくらみみたいで」
俺が答えると、春は横で小さく笑った。
「すみません、大げさで」
ベッドに横になる春。
カーテンが閉められて、姿が見えなくなる。
「君は教室戻っていいよ」
そう言われたけど。
「……ここにいます」
自然にそう答えていた。
カーテンの外。
静かな空間。
時計の音だけが、やけに大きく響く。
中から、小さな声が聞こえた。
「……また、か」
かすれるような声。
聞こえないふりをするには、
はっきりしすぎていた。
少しして、カーテンがわずかに揺れる。
隙間から、見えた。
春が、苦しそうに息を整えながら、
震える手で薬を取り出しているのが。
__もう、わかってしまった。
あのとき見た薬。
何度も繰り返される体調不良。
無理に作られた笑顔。
全部が、一本の線で繋がる。
軽いものじゃない。
“ちょっとした体調不良”
なんかじゃ、絶対にない。
それでも。
カーテンが開いたとき、
春はいつも通りの顔をしていた。
「ごめんね、付き添わせちゃって」
少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「……もういいのか」
「うん。ちょっと休んだら平気」
嘘だ、と思った。
さっきの姿を見て、そう思わない方が無理だ。
でも。
「そっか」
俺は、それだけを返した。
帰り道。
今日は“リスト”の話は出なかった。
代わりに、どうでもいい話を少しだけして、
途中で会話は途切れた。
「ねえ」
別れ際、春が呼び止める。
「今日さ」
一瞬だけ、言葉を探すみたいに間があって。
「……ありがとう」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑顔は、いつもと同じはずなのに。
どこか、違って見えた。
「別に」
短く返す。
本当は、聞きたいことなんて山ほどあった。
——大丈夫なのか。
——何の病気なんだ。
——どれくらいなんだ。
でも、どれも言えなかった。
もし聞いてしまったら。
全部、終わりに近づいてしまう気がしたから。
「じゃあ、また明日」
春は、いつも通りそう言う。
「ああ」
俺も、いつも通り返す。
その“いつも通り”が、
どれだけ壊れそうなものかも
知らないふりをして。
__気づいてしまった。
もう、戻れないところまで来ていることに。
それでも俺は、
今日もまた、
知らないふりをする。
それがきっと、
彼女の望んでいる“普通”だから。
そして同時に、
俺自身が壊れないための、
ただの逃げでもあった。
桜は、目に見えて減ってきていた。
春は、確実に終わりに向かっている。
その事実から、
目を逸らしながら。