この作品はいかがでしたか?
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結局なおちゃんに電話を掛けた夜はそのまま泣きながら眠ってしまって、携帯の電源は切ったままで過ごしてしまった。
泣きじゃくったままケアもせず放置したまぶたは重く腫れ上がっていて。
私は仕事に行くのが――と言うより外出するの自体が――嫌だなと思って鏡の前でひとり溜め息を落とす。
冷たい水で洗顔して、ケーキについていた保冷剤をハンカチに包んで目元を冷やしてみたけれど、なかなか腫れは引いてくれない。
まるでジュクジュクと疼く自分の心を反映しているような、ボロボロなコンディションの目元と、陰鬱な表情。
「どうやって誤魔化そう……」
(いっそこのまま、今日はお仕事お休みしてしまおうかな)
そんな甘ったれた考えが脳内を支配してしまう。
有給休暇はまだまだ沢山残っている。
病欠という形を取れば、突然の欠勤も受け入れてもらえるだろうか。
私は泣き過ぎてガンガンする頭を抱えながら、そんなことを考えてばかりいた。
なおちゃんは今日も私の気持ちなんてお構いなしに、いつも通り平然と出勤するのかな。
そう思ったら、また視界がじんわり滲んできて、私は慌てて鼻をすすって涙をこらえた。
別れるって決めたのは自分。
ちゃんとなおちゃんとは決別するって決意していたはずなのに。
何でこんなにも苦しいんだろう。
なおちゃんが別れるも別れないも私次第だって……全部全部私に丸投げしたから?
恥も外聞もかなぐり捨てて「俺は菜乃香と別れたくない」って追い縋ってくれなかったから?
きっと、どっちもなんだって私、分かってる。
別れるって心に決めたつもりだったけれど、今でもすっごくすっごくなおちゃんのことが好きだから……嘘でもいい。
彼に「考え直してくれ」って引き止めて欲しかったんだ。
無造作にベッドに置きっぱなしになっているスマホの電源をオンにしたならば、もしかしたらなおちゃんから沢山の連絡が入っているんじゃないだろうか。
『菜乃香、俺、やっぱりお前と別れたくない』って……そんなメッセージが届いてるんじゃないかしら。
そんなことを考えて。
でも何もきていなかったら?って思ったら、怖くて電源を入れられないの。
***
鏡の前――。
私は勇気が出せないままに、スマートフォンを握りしめて、身動きが取れずに固まっている。
「……会社……どうしよう」
それも決めあぐねたまま。
私という人間は、何もかも本当に優柔不断だ。
そうしてきっと、私の大好きななおちゃんも。
不倫ができる人って……もしかしたらそんな風にどこかしらルーズで決断力がない、流されやすい人間の集合体なのかも知れない。
ルーズでいい加減な人たちばかりだからきっと。
こんなこと間違ってる。
周りはもちろんのこと、当人たちにだって不幸な結末しか用意されていない。
そう分かっていても、目先の欲に溺れて、考えなきゃいけないリスクから視線をそらして流してしまえるに違いない。
そう。今の私みたいに――。
だって、私がもしもその真逆のタイプの人間だったなら。
きっとこんな泥沼には最初っから足、突っ込みっこなかったと思うもの。
何も決められないならいっそ何も決められないまま。
私、ぬるま湯に浸かり続けていたら良かったのかな。
お母さんからの諭すようなあの言葉も、投げかけられた時はあんなに胸を突き刺すみたいに心を切り裂いたはずなのに……。
私、気が付いたら利己的にもなおちゃんと〝続けていく〟ことばかり考えてしまってる。
お母さんが心底私のことを心配してくれたこと、全部全部飛んじゃってる。
周りの人間がどう思おうと、きっと私は曖昧に誤魔化しながら、なおちゃんとの関係を維持していきたいんだ。
なおちゃんが、私に問い掛けてきた「菜乃香はそれでいいのか?」と言う質問の答えが明確に出せてしまって、私は小さく吐息を落とした。
なおちゃんに乞われて付き合い始めたはずなのに、いつの間にか私がなおちゃんを彼以上に愛し、求めてしまっている。
そんな気がして仕方がない。
***
結局目元の腫れが引かなくて、化粧をしてみても誤魔化せなかったから、今日は仕事をサボってしまった。
泣きすぎたせいで枯れてしまった声のお陰。
会社にお休みしたい旨を電話したら、電話口に出た先輩――渡辺真帆さんに物凄く心配されてしまった。
(ごめんなさい。私、風邪とかではないんです)
痴情のもつれで会社をお休みするだなんて、なんて不純なんだろう。
そう思ったけれど、実際お休みすると決めて連絡を入れたら、罪悪感よりも安堵感の方が優ってしまった。
一度はしてみたメイクを落として、バタリとベッドに倒れ込む。
寝不足もあって、すぐにトロトロと睡魔が降りてくる。
でも眠りに落ちかけるたび、嫌な夢を見てビクッと身体が跳ねて目が覚めてしまうのだ。
(眠れない……)
身体は物凄く疲れているのに、心が眠ることを拒んでいるようで。
小さく吐息を落とすと、私は電源を落としたままのスマートフォンを手に取った。
――と。
ピンポーンとチャイムが鳴って、私はノロノロと重い頭を持ち上げる。
別にテレビをつけているわけでも部屋の照明を付けているわけでもない。
このまま大人しくしていたら居留守、使えちゃうかな?
そんなことを思って息を殺していたら、「菜乃香、外に車があるし、いるんだろう?」と声が掛かって。
私は条件反射のように飛び起きて、玄関に向かった。
ドアスコープを覗くまでもなく、声の主がなおちゃんなのは分かっている。
ドア越し、鍵を開けるべきか否かを迷ってドアノブを握りしめていたら、外の声が続く。
「菜乃香。とりあえず、中に入れてくれないか? お前とちゃんと話し合いたいんだ……」
――菜乃香がスマホの電源を切ってしまっているから、話したくても話せない。
そう続けられても仕方ないと思うのに、なおちゃんはそこに関しては責めてこなかった。
私は、恐る恐る鍵を開けた。
がチャッと開錠音がするなり、向こうからやや強引にドアを引かれて、あっという間になおちゃんが中に入ってくる。
「菜乃香っ!」
顔を見たら恨み節のひとつでも言われるかと思っていたし、私自身そうしたかったのに、なおちゃんは何も言わずに私をギュッと抱きしめてきて――。
玄関扉も閉まり切っていないこの状況で、余りにも性急にそんなことをされた私はどうしていいか分からなくて固まってしまう。
「何であんな中途半端なまま電話の電源切るんだよ。心配しただろ!」
言われて、私はなおちゃんが私のことを心配してここまで来てくれたんだと思い知った。
「だって……あれ以上話しても仕方ないって思った、から」
言ったら「馬鹿……。んなわけあるか」ってつぶやかれて、腕にギュッと力を込められてしまう。
「なおちゃん、お仕事は……」
作業服姿のなおちゃんに気がついて恐る恐るそう問いかけたら「こんな状態で行けるわけないだろ。――お前だって休んでるじゃないか」と苦々しげにつぶやかれた。
私を抱きしめるなおちゃんの身体が小さく震えているのを感じて、私はハッとさせられる。
緒川直行という男性が、強そうに見えてとても弱いところのある人だと思い出したからだ。
なおちゃんは図太いようでいて、とても繊細なところがある。
四月に人事異動がある直前の三月末。彼が仕事を休みがちになることに、私は付き合い始めて割とすぐ、気付かされた。
あれは確かなおちゃんとこういう間柄になって二年目の春。
なおちゃんの〝それ〟がすごく酷くて――それまでは仕事後には毎日のように会えていたのに、「今は誰とも会いたくないんだ。ごめん」と言われて一ヶ月ほど会えなくなってしまった時期がある。
実際その頃、一ヶ月ぐらい傷病休暇という形でなおちゃんは仕事も休んだ。
普通の彼氏・彼女の関係なら、そんな時、相手がなんと言おうと家に乗り込んで行くことが出来るのに、私たちはそさえ許されない関係だったから。
それは、なおちゃんが私を拒絶して自宅に引きこもってしまったら、全く会えなくなってしまうんだと、私に現実を突きつけてくる期間でもあった。
電話も、「菜乃香からは掛けないで欲しい。俺から連絡するのを待っていて欲しい」と言われて。
そんなことを言いながらも、なおちゃんは「菜乃香の存在だけが俺の救いだから」と言って、まるでそれを証明するように夜になると毎日のように電話を掛けてきてくれた。
それがなかったら、私の方も心配で潰れていたと思う。
あのときのなおちゃんは、声はいつも通り穏やかだったけれど、二言三言交わすと「もう切るね」と否応なく通話をシャットアウトする感じで。
彼が殻に閉じこもってしまっていたあの日々は、私にとってもすごくすごく辛かったのを覚えている。
ちょうどその前の年、なおちゃんは本庁から、市内の別の施設――ゴミ処理場に異動になったばかりだった。
少ない会話のなか、その環境になかなか馴染めないんだ、と吐息混じりに話してくれたのを鮮明に覚えている。
別にいじめられているとかそう言うのではないのだとも話してくれて――。
逆に期待されすぎてそのプレッシャーで押しつぶされそうなのだと淡く笑った彼は、異動になって割とすぐ、ゴミ処理工場の副工場長という立場を負わされていた。
私も転職をした身。
急に電話を音信不通にしたりしたから。
もしかしたらその時の自分と重ねて見てしまったのかな、と何となく思って。
「私、大丈夫だよ?」
なおちゃんの腕にきつく抱きしめられたまま。
今も尚、なおちゃんの胸元にグッと顔を押し当てられていてくぐもった声しか出せなかったけど、私はハッキリとそう言った。
「電話、通じなくしちゃってごめん。……なおちゃんが全部私に任せるって言ったから……突き放された気持ちになって悲しかっただけなの」
「――けど、実際俺には菜乃香を縛る権利はないから」
ここへきても尚そんな言い方しかしてくれないなおちゃんは、本当に酷い人だ。
音信不通にされたからって……わざわざ仕事をサボってまで家に会いに来ておいて、別れるかどうかを決めるのは私だなんて。
なおちゃんは私に決定権を持たせようとするくせに、こんな風に自分がして欲しい方向へ私を誘導しようとするところがある。
とてもズルイって思うのに、私はいつも彼の手のひらの上で踊らされてしまうのだ。
それに――。
私はこの一晩で自分の本心に気付かされてしまったから。
例えお母さんを悲しませることになったとしても……。
周りの人たちみんなが不幸になる結末しかないとしても……。
私たち自身、地獄に落ちる未来しかないとしても……。
それでも彼の手を離したくない、って思ってしまった。
「なおちゃん、私、なおちゃんと離れたくない」
こんなの間違ってるって分かっている。
だけど……私にはこの結論しか導き出せなかった。
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