テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
羽理と風呂で初めて対面した時、羽理は大葉が自社の部長だとすぐ気が付いたのに、自分は目の前の女性が己れの管轄する財務経理課の人間だと気付けなかったのは、つまりはそういうことだったんだろう。
ふと見まわした先、羽理の席の隣に今朝電話で話した相手――法忍仁子の姿を認めた大葉は、周りには分からない程度に彼女にだけアイコンタクトを取った。
社長との用事を済ませたら、約束通り法忍さんには羽理と話す機会を設けてやらねばと思いつつ。
(いや、その前に俺からもちゃんと羽理とのこと、話さねぇとな)
何しろ勢いに任せてプロポーズのことも話してしまったのだ。
そこは倍相岳斗には話していないところだ。
倍相には羽理と付き合ってることと……ゆくゆくは一緒に暮らす宣言しかしていなかったな、と思った大葉は、そのままの流れでゆっくり財務経理課長の席へ視線を転じた。
そうしてバッチリ倍相と目が合ってしまって心の中で思わず『ヒッ』と悲鳴を上げた。
(何だってあんなキラキラした笑顔で俺に微笑みかけてくるんだ、倍相岳斗!)
元々自分とは真逆。
やたらと爽やかな笑顔が似合う男ではあったのだけれど。
大葉は自分でもハッキリ分かるぐらい引きつった顔で黙礼だけすると、そそくさと総務部長室にこもった。
「ちょっと待て、ちょっと待て……」
つぶやいて、今閉めたばかりの扉に縋ってズルズルとその場にしゃがみ込んだ大葉の脳内に、昨夜どこか拗ねたような口ぶりで羽理が言った、『何だかモヤッとします。倍相課長ってば、まるで大葉に恋しちゃってるみたいなんですもん』という言葉が蘇ってきて、大葉は「……んなわけねぇだろ!」と、誰にともなく思わず吐き捨た。
――と、突然背後の扉がコンコンとノックされて、大葉は「ふぁっ!?」と思わず声に出して小さく悲鳴を上げてしまう。
それが妙に恥ずかしくて、誤魔化すようにサッと立ち上がると、足音を立てないよう気遣いながら足早にデスクの方へ向かった。
そうして一度気持ちを落ち着けるように深呼吸をすると、努めて平常心を装って、「入れ」と許可をしたのだけれど。
「失礼します」
そう言って入って来た相手を見て、大葉は思わず「ひっ!」と悲鳴を上げて立ち上がった。
「屋久蓑部長、おはようございます」
にこやかな笑顔でこちらへ近付いてくる倍相岳斗に気圧されたみたいに無意識に二、三歩後ずさったら、背後の壁に椅子の背もたれが当たって、座面が膝裏を直撃する。
結果、膝カックンした大葉は、椅子に尻餅をつくみたいにドサッと腰かけてしまった。
いくら何でも、部下相手に何とも情けない状態ではないか。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ってきた倍相にストップ!と心の中で叫びながら、大葉は片手を上げて彼の動きを制すると、「大丈夫だ」と言ったのだけれど。
(声、震えてなかったよな!?)
とか何とか、頭の中はてんやわんやだったりする。
「――何か用か?」
気を取り直すように一度咳払いをして問いかけると、倍相が居住まいを正したのが分かった。
「大葉さん、昨夜はあのあと羽理ちゃ……、じゃなくて……荒木さんとどうなったんですか?」
真剣な目で問われた大葉は、心の中で抗議せずにはいられない。
(こら倍相! 何で羽理は〝荒木さん〟って言い直したのに、俺のことは〝屋久蓑部長〟って訂正しないんだ!)
これではまるで、羽理のアノ推測が正しいみたいで恐ろしいではないか。
このまま倍相の目を見つめ続けていてはいけない気がして、大葉はそろそろと瞳を逸らせたのだけれど。
(えっと……こいつ、今、俺に何を質問してきたんだっけ!?)
別の衝撃が大きすぎて、問い掛けられた質問がぶっ飛んでしまった。
***
屋久蓑大葉に視線を逸らされた倍相岳斗は、どこか落ち着かない様子の屋久蓑部長に、(ああ、これは……)と思う。
真面目社員で、滅多なことでは休んだりしない荒木羽理が、もう一日休ませて欲しいと連絡をしてきたのはつまりはそういうことなのだ。
昨夜会った時、彼女はすっかり元気を取り戻していたように見えたのに、自分が帰った後で、出社できないくらいの何かがあったと思うのが妥当だろう。
加えて、朝からやたらと法忍仁子の様子もおかしいし、皆まで語られなくてもある程度は察してしまった岳斗である。
(何かモヤモヤするな……)
それはきっと、お気に入りだった荒木羽理を手籠めにされたことに対するざわつきなのだと納得しようとした岳斗だったのだけれど、どうも違う気もして、それを払拭するみたいに話題の矛先を変えることにした。
コメント
1件