テラーノベル
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幼い頃の初恋は、憧れのまま。それが恋なのだと認識しないままに終わっていた。
環境が変わって相手の姿を見ないうちに何となく、その男の子の存在自体が自分の中から消失していくような、そんなちっぽけな好意の裏返しみたいな淡い恋心だったのだ。
ちょうだい? とねだれば、美味しいものを分けてくれるから好き。
好きって言ってまとわりついても、あからさまに跳ね除けたりしないから嬉しい!
お姫様に変身させてもらった自分の横にいてくれた唯一の男の子。綺麗な顔立ちの彼のそばにいたら、自分はずっとお姫様のままでいられる気がしたから。だから懸命に好きだと言ってしがみついた。
そんな幼稚な気持ち、初恋と呼ぶのも烏滸がましいかも知れない。
でも――。
ついさっき終わりを告げたそれは、こんなにも杏子の心を深くえぐって大きな傷跡を残している。
だからきっと、これはれっきとした〝好き〟で、幼い頃の〝アレ〟とは違うものだ。
「アンちゃん」
いつの間に、そばまで来ていたんだろう?
気遣わし気に名前を呼ばれて、杏子は呆然自失のまま声の主を瞳に映した。
「……柚子……お姉……ちゃん?」
ぼんやりとしたまま尋ねれば、記憶の中よりうんと背が高くなって、グラマーになった柚子お姉ちゃんが、「うん、柚子だよ」とうなずきながらギュッと抱き締めてくれた。
「大葉のお見合い相手、杏子ちゃんだったの?」
柚子に抱きしめられたままでいたら、横合いからたいくんによく似た顔立ちをした女性――屋久蓑果恵――が声を掛けてきて、杏子は『ああ、私、この人の息子さんにフラれたんだ』とぼんやりとした頭で理解した。途端ポロリとこぼれ落ちた涙が堰を切って、止められなくなってしまう。
「ごめんなさいね、杏子ちゃん。きっとうちのバカな兄が……杏子ちゃんが期待しちゃうようなことを言ったのね?」
大葉との会話を聞いていたわけではないだろうに、果恵がどこか核心めいた声音でつぶやいて……。「懲らしめてやらなきゃ」と吐息を落とした。
大葉の身内であるはずの二人からそんな風に気遣われたら、杏子はますますどうしていいか分からなくなる。
何て言うかすごくすごく居た堪れない。
杏子は柚子の腕を振り解いてぺこりと頭を下げると、一目散に駆け出した。
背後から追いすがるように「アンちゃん!」とか「杏子ちゃん!」とか、柚子と果恵の声が聴こえてきたけれど、杏子は振り返ることが出来なかった。
***
屋久蓑家はだだっ広い敷地を持つお屋敷だから、町の外れに位置しているような錯覚に襲われそうになるけれど、実際にはそんなことはない。
料亭もかくやと思わされる立派な数奇屋門をくぐり抜けて一歩外へ飛び出せば、ほんのちょっと行ったところにある大通りで、すぐに流しのタクシーを拾うことが出来てしまう。そんな立地だ。
杏子はタクシーに乗り込むなり自分の住まい近くにある神社の名を告げて、ドライバーに涙を見られないよう窓外へと視線を凝らした。
ようやく日没を迎えた町は、あちこちに明かりが点り始めていて、ポツポツと夜の様相へと変遷している真っ最中――。
黄昏時、というには少し光量が足りない。でも夜と言うには若すぎる。そんな時間帯なことが、杏子には少し有難く思えた。
始まってもいなかった片想いだ。
ただ、小さい頃にかっこいいと思っていた男の子に横恋慕して、冷たく突き放されただけ。
たいくんの好みのタイプだなんて吹き込まれて、変な思い上がりをしていた杏子は、たいくんが本気で懸想している相手への接し方と、自分への態度の違いを目の当たりにして、頭から冷水を浴びせ掛けられたような気持ちになった。
(私に入り込む余地なんてなかった)
父親から釣書を渡したと聞いてから、杏子は随分と長いことソワソワしながら先方からの返事を待っていた。
その間に自分でも気付かないうちに大葉への想いが募り、大きく育ってしまっていたらしい。
いきなり一方的に――それも代理の人間からお見合いを断られて、「好みのタイプだと思ったんだけど」だなんて言われたら、どうしても納得がいかなくなった。
気が付けば、そこにたいくんがいるかもどうかも分からないのに、杏子は記憶を頼りについ屋久蓑家を訪れてしまっていたのだ。
そうしたらたまたまだろうか? たいくんに会えてしまった。そのことが運命に感じられたといったら、バカだと笑われてしまうだろうか?
杏子の知る昔のたいくんは、自分が強く求めればイヤイヤながらもいうことを聞いてくれる人だったから。だから強気でいけばあるいは、なんて打算が働いたことも否定できない。
何故なら実際の彼は写真なんかよりも何倍もかっこよくて、ギュッと縋りついた彼の身体つきは、杏子が知っている子供の頃のそれよりはるかに逞しく、男らしいものになっていたから。
可能性があるならば諦めたくないと思ってしまったのだ。
***
ほぅっと溜め息を落として窓ガラスを曇らせたと同時、ふわりと自分のモノとは違う香りが漂って、杏子は思わず息を詰めた。きっと大葉に抱き付いたりしたからだ。
(たいくん……)
この想いを断ち切るにはどうしたらいいだろう?
「着きましたよ?」
不意に運転手からそう声を掛けられて、いつの間にか車が乗車時に指定した〝居間猫神社〟に着いていたことに気付かされた。
杏子は指定された料金を電子決済で支払うと、ノロノロとタクシーを降りた。
視線を転じれば、自分が住んでいる十階建ての女性向けアパートが見えたけれど、何となく直帰する気になれなくて……そのままぼんやりとその場に立ち尽くしてしまう。
「え?」
と、不意に足元をやわらかくくすぐられて、何事かと視線を落としたら、丸々とよく肥えた三毛猫が足にすり寄っていた。
「ごめんね。私、何も食べるもの持ってないの」
言ったら「にゃぁん?」と疑問符で返された。
杏子はキョロキョロと辺りを見回して、コンビニを目に留めると、「ちょっとだけ待っててね」と猫に声をかけた。
落ち込んでいたはずなのに、何でそんな気持ちになったのか分からない。
さっき屋久蓑邸で犬に散々吠え付かれたから、猫に情が傾いたのだろうか?
(いや、違うな。……私、一人になるのがイヤなんだ)
たいくんの身内に、たいくんや彼の彼女さんがいるところで慰められるのは辛かった。でも、だからといってどこにも拠り所を求めていないというわけじゃなかったから。寄り添ってくれるなら猫だって構わないと思った。ちょっとだけ誰かの温もりが感じられるなら、杏子はそれに癒されたい。
杏子は、コンビニで三本入りの猫用ピューレスティックを一袋買った。これなら細長いパウチを切り開けてそのまま猫に舐めさせてあげることが出来る。
それを手に急いで戻ってみると、猫は先程の場所でコロンと寝そべって杏子を待っていた。
「お待たせ」
言いながら買ってきたばかりのおやつを切り開けて、中から小袋をひとつ取り出すと、封を切ってちょっとだけ中身を絞り出す。
それを顔の前に持って行くと猫は満足そうにぺろぺろと舐めた。
(可愛い……)
貫禄がある猫だ。顔もどちらかと言えば不細工なんだけど、どこか愛嬌があって憎めない。
杏子は猫の姿を眺めていると、少しだけ気持ちが穏やかになっていくのを感じた。
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