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真理子がデイサービス『おひさま』に通い始めてから、あっという間に一ヶ月が経とうとしていた。
最初はあれほど「拒絶されたらどうしよう」「不安がったらどうしよう」と身構えていた柊吾だったが、当の真理子は初日からノリノリで送迎車に乗り込んでいき、今ではすっかり施設での生活を楽しんでいる。
「今日ね、折り紙で大きなくす玉を作ったの! それでね、職員の美紀さんが……」
夕方、送迎車から降りてきた真理子は、晴れやかな顔でその日の出来事を色々と話してくれる。
四年間、静かな部屋でテレビを眺めたり、同じところをぐるぐると歩き回ったりしていた真理子の表情に、明らかに生き生きとした明るさが戻っていた。
(……そっか。母さんに必要だったのは、外の世界との接触だったんだな)
認知症が完全に治るわけではないし、今だって調子の良い時と悪い時の波は激しい。だけど、デイに通い始めてからは夜もぐっすりと寝てくれるようになった。
真理子の笑顔が増え、柊吾自身が抱えていた心身の負担も圧倒的に減っていた。
自分が良かれと思って囲い込んでいた四年間。もちろん必要な時間だったとはいえ、こうして他者と関わり、笑顔で帰ってくる真理子の姿を見て、柊吾の胸の奥にあった重い罪悪感が少しずつ解けていく。
それと同時に、柊吾自身の生活も劇的に変化していた。
朝十時から夕方四時過ぎまで、部屋には柊吾一人しかいない。
溜まっていた家事を片付けても、まだたっぷりと時間が残っている。最初の頃はどう過ごせばいいのか分からずソワソワしていたが、今では一人でゆっくりとお茶を淹れ、静かな音楽を聴きながら好きな本を開く余裕すら生まれていた。
(……僕、すごく楽になってる……)
肩の荷が下りるとはこういうことか、と柊吾はしみじみと実感していた。自分のためだけに使える時間があるということが、これほどまでに心を軽やかにしてくれるとは思わなかった。
それもこれも、全部瑞樹のおかげだ。
(……黒瀬さん、今日は静かだな。もしかして、仕事なのかな?)
本から目を離し、ふと壁に視線を遣る。
薄い壁の向こうからは、物音ひとつ聞こえてこない。真理子のいない静寂の中で、気づけばいつも隣人の気配を探してしまう自分がいる。
そうしているうちに時間はあっという間に過ぎ、気づけば窓の外が夕暮れの色に染まり始めていた。真理子が帰ってくる時間が近い。柊吾はベランダに出て、洗濯物を取り込み始めた。
すると、ほどなくしてカチャリと隣の網戸が開く音がした。
「こんばんは、柊吾さん。今日もお疲れ様です」
ベランダの低い手すり越しに、瑞樹がいつもの穏やかな笑顔を見せる。
「あれ、黒瀬さん。こんばんは。今日はお仕事、早番だったんですか?」
「ええ。実はさっき戻ってきたんです。そろそろ柊吾さんが洗濯物を取り込む時間帯じゃないかと思って、急いで出て来ちゃいました」
「……そ、そうなんですねっ」
思わず声が上ずってしまう。
ずるいよなぁ、と柊吾は胸の奥で悶絶した。どうしてこの人は、こちらの考えを見透かしているようなことをさらりと言えてしまうのだろう。
(そんなこと言われたら……僕と話したくて急いで帰ってきたんじゃないか、なんて……勘違いしそうになるじゃないか……)
ドクドクと跳ね上がる心臓を隠すように、柊吾は抱えた洗濯物にぎゅっと顔を埋めそうになった。
「……ところで、最近のお母様の様子はいかがですか? デイサービスには慣れましたか?」
瑞樹が手すりに長い腕を預け、優しく覗き込んでくる。柊吾は息を整えると、照れくささを誤魔化すように頷いた。
「はい、すごく楽しいみたいです。毎回夕方帰ってくるなり、施設であったことをずっと楽しそうに話してくれて……。黒瀬さんがデイサービスを勧めてくれなかったら、今頃僕は、一人で抱え込んで潰れていたかもしれません」
素直な感謝を口にすると、瑞樹は眼鏡の奥の目元をさらに柔らかく和らげた。
「柊吾さんが頑張ってきたからですよ。ご自分を褒めてあげてください」
風に揺れる瑞樹の髪。低く響く声。
真理子に「気になる人はいるのね?」と突っ込まれ、自室で「いいな」と呟いてしまってからというもの、瑞樹と話すたびに柊吾の胸の奥にある思いは日々膨れ上がり、もう誤魔化せそうにないほど大きくなってしまっていた。
コメント
1件
ああ、この回すごく良かったです……!真理子さんがデイサービスで生き生きしてる様子と、柊吾さんが少しずつ自分の時間を持てるようになって心身ともに軽くなっていく流れに、思わずほっとしました。そして瑞樹さんが「洗濯物を取り込む時間帯」を覚えててわざわざベランダに出てくるあたり、本当にずるいですよね(笑)柊吾さんの気持ちが日に日に大きくなっていくのが伝わってきて、胸がきゅっとなりました。次も楽しみにしてます🌷
かんな
1,900