テラーノベル
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夜の空は、濁った墨のように重たく沈んでいた。山の奥、木々のざわめきすら凍りついたかのように静寂が支配する。
音を立てるのは、風に揺れる葉と、獣の血が土に染みる音――そして。
「……お前が、今夜の“上弦”か」
ふ、と笑うような声が森に落ちた。
そこに立つのは一人の少年。
だが、その足取り、刀の構え、気配の隙――どれを取っても、ただの人間ではなかった。
凩 侃(こがらし かん)。鬼殺隊“凛柱”。
その名は、柱の中でも異質で冷たく、そして美しく響く。
凍てついた風のように静かで、鋼のように強く、人を寄せつけない。
けれど今、彼の前に立つ男を見た瞬間――
侃の目は、ほんのわずかに揺れた。
「……お前……」
その男。
赤と青の痣のような紋様。闘気をまとったような鬼気。
かつて、誰よりも温もりを持って自分を抱きしめた男――
「……猗窩座」
名を口にする声は、驚くほど柔らかかった。
一方、猗窩座。
その声を聞いた瞬間、彼の心臓が“何か”を思い出したように跳ねた。
凍えるような夜の中で、あの子供の影が、いま目の前で“人間として”生きていた。
「……生きてたのか。あの時の、坊主」
言葉の端に、感情が滲む。
だがその表情には、昔のような穏やかさはもうなかった。
鬼となった彼は、あまりにも多くの“忘却”を抱えながら、侃だけは忘れられずにいたのだ。
「そうか……“柱”になったのか。人間のままで」
「……お前は、あのときと何も変わってない。だけど……もう敵だ。鬼殺隊の、敵だ」
侃は言う。
唇はわずかに震えていた。
心が抗っていた。
頭は“斬らなければ”と命じていた。
けれど、剣を握る手は――
震えていた。
⸻
再会、それは戦いの始まり
「……なら、構えろよ」
猗窩座が静かに拳を握る。
地面が僅かに割れ、風が逆巻く。
「鬼殺隊なんだろ? “柱”なんだろ? その手で、俺を斬ってみろ」
侃の足元の草が風に散る。
彼の中で、記憶と現実がぶつかり合う。
あの夜の温もり。
体を包んだあの手。
名前すら知らなかった、あの人。
「俺は――」
「……俺は、あなたを……」
一歩、侃が踏み出す。
日輪刀が抜かれる。
その動作は迷いなく、刃は真っすぐ猗窩座を目指していた。
だが――
「……遅い」
猗窩座が拳を受け止める。
侃の刃は、猗窩座の肩口に止まった。
斬れない。
切り裂けない。
殺せない。
心が、動いてしまった。
「……お前は、俺に似てる」
猗窩座が低く言った。
「強くなることだけを望み、過去を殺してここまで来た。だが――」
「……人間のままじゃ、いずれ壊れるぞ」
「黙れ」
「鬼になれ、侃」
「……黙れ!!」
侃が叫んだ。
日輪刀が再び振り下ろされる。
だがその目には――
涙が、にじんでいた。
⸻
戦いの余韻、心の傷
戦いは決着しなかった。
両者、致命傷なく引き裂かれたように引いた。
猗窩座は“逃がすように”その場を去り、侃は地に膝をついて肩で息をしていた。
「……なんで……今、来たんだよ」
声は誰にも届かない。
ただ夜の闇が、それを静かに抱きしめていた。
その夜、鬼舞辻 無惨は言った。
「――奴は、使える」
「上弦の参。次はその“凛柱”を連れてこい。鬼にしろ。それが命令だ」
猗窩座は、答えなかった。
ただその夜、久方ぶりに夢を見た。
小さな子供が、凍える手で自分の裾を掴む夢。
『……寒い』
『あなた、名前は?』
『また……会える?』
あの声が、耳の奥でずっと響いていた。
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